ぼくは詩人ではないけれど
ランボーやアポリネールあたりで確立され
プレヴェールでさらに可能性を拡大された自由詩形式を
事の次第からというか
精神のなりゆきから
ずいぶん使わせてもらうことになったものだから
詩と呼ばれがちな書き物や
自己申告で詩だと主張したがりな書き物を
ずいぶんたくさん見続けてきている
その結果からいうと
日本の戦後の詩や
いまでは古新聞なみに黄色くなってしまって
結局似たり寄ったりでしかなかった現代詩なるものは
ずいぶん狭い詩観の実体化でしかなかったな
とやはり思う
とにかくセンチメンタルなんだ
日本の詩っていうのは
ちょっと皮肉を言ったり
わずかな発想の飛躍を書きつけたり
とにかく錯乱へと持って行こうとしたり
あるいはタニガワシュンタロウのように
感情や思いの宣伝コピーみたいな方向にまとめようとしたりと
まあ
そんなのは
どこの国でも詩のお得意の芸なんだが
身分をわきまえた小さな細工物を拵えようとするかぎりでは
それはそれで
面白くなくもない
そういうちっちゃな細工物を好んで眺める読者っていうのもつねに
それはそれで
需要と供給が成り立っている
中国詩やユゴーやホイットマンやミルトンやバイロンなどを
あまり読んでいなかった頃は
詩なんていうのは
ちっちゃな細工物であればいいんだろうな
と思っていたが
だんだんと古今東西の詩を知りひろげるにつれて
日本の戦後の詩界の偏向ぶりは
けっこう凄まじいものだ
とわかるようになってきた
そうして
はっきりと離れたわけだ
詩人たちからは
詩形式だけを適宜用いるようにして
ぼくなりにぼくの精神の役に立つようにしていこうと
それでも
今から15年前頃までは
ちょっと詩人たちの集まりに出かけていくと
非詩!
みたいなのを掲げる人たちが必ずいて
非詩!
にしか詩と呼びうるかもしれないなにかの顕われの機会はないと
かなり共有されていたものだけれど
いつのまにか
そういうアイロニカルな詩の探求者が消えて
いなくなっちゃったんだなあ
かわりに
センチメンタルな
あるいは自己体験みたいなものを書けば詩ですなどと
臆面もなく思い込んでいるような
ヘンな素朴派や自然派ばかりになっちゃったなあ
ひねくれた人ばかりを集めるハエ取り紙みたいな働きが
いわゆる現代詩にはあったけれど
なんか今現在の詩っていうのは
読書量も少なければ
海千山千の人生経験もなく
コルモピアで買ったシャツとかばかり着て
おずおずとチェーン店のプラスチック椅子で安コーヒー飲んでいる
ウラナリみたいな人たちばかりの作物に
なっちゃった感じだな
なんて
言いながらぼくも
文章のように前から後へと読んでいけば
なんとなくそれなりにわかるような詩形式書き物を
韻律あわせもしない行をふしだらに並べながら
こんなふうにしているわけだから
人のことを批判はできないって
ことでは
あるんだけれどね
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