2021年5月25日火曜日

わたくしを老いぼれの餌食にさせない

 

 

高村光太郎の『智恵子抄』をひさしぶりに見ていて

死んだ智恵子を歌う「元素智恵子」をほんとうにひさしぶりに

たぶん数十年ぶりに読み直してみたら

言葉づかいはごつごつしているけれども

詩というのはこういうものだろうかなと思わされた


智恵子はすでに元素にかへった。
わたくしは心霊独存の理を信じない。
智恵子はしかも実存する。
智恵子はわたくしの肉に居る。
智恵子はわたくしに密着し、
わたくしの細胞に燐火をもやし、
わたくしと戯れ、
わたくしをたたき、
わたくしを老いぼれの餌食にさせない。
精神とは肉体の別の名だ。
わたくしの肉に居る智恵子は、
そのままわたくしの精神の極化。

 

大事な人が亡くなっても

その人に接していたこちらの心の中の窓口や土台や

ソフトやアプリのようなものは残り続ける

それが機能し続ける結果として

人間の脳はさまざまな外界の現象の上に

死んだ人の感触を発生させ続ける

なるほど

こういう現象を扱った言葉を詩歌として保存すれば

多くの人の共感を呼び続けるに

ちがいないだろうな

と思わされる

 

詩が素直だった時代ならではの詩

というものがあり

結局

そういう詩に

こまっしゃくれた詩はことごとく負けていく

戦後詩も現代詩も

まったく読まれなくなったということを

詩歌に惹かれる人たちは

ほんとうに大ごとに思ったほうがいい

 

わたしが自由詩形式を使ってみようと思ったのは

ザ・ビートルズや

マザーグースのような

純然たるフィクションや

お遊びや

ナンセンスが書きたかったからで

詩なんて

もうランボーで終わってるじゃないか!

よくよく悟ってからのことだった

 

ガルニエ版のランボー詩集をいつも抱えて

80年代の東京を彷徨っていたが

いまさらランボーのように書いてもしょうがないし

そうしたらブルトンたちのようになっちゃうだけだし

そうしたらひたすら読まれない詩歌への道筋まっしぐらだし

といったことを考えて

ザ・ビートルズや

マザーグースや

せいぜいボブ・ディランかな

などと思いながら

しかし

ランボー詩集だけはつねに抱えていた

 

高村光太郎なんて

とうの昔に馬鹿にして

卒業!

なんて思って本も手放していた頃

渋谷のセンター街には萬葉会館なんていう飲食店ビルがあって

便利だったので

よく食べて帰ったものだった

井の頭線で

池の上へ

 

だいぶ歳月が経って

高村光太郎の

あれでも

よかったのかもしれない

少なくとも

日本ではあっちのほうが残るよ

今は

思わされる

 

智恵子はわたくしの肉に居る。
智恵子はわたくしに密着し、
わたくしの細胞に燐火をもやし、
わたくしと戯れ、
わたくしをたたき、

わたくしを老いぼれの餌食にさせない

 

という光太郎の詩句が

今は

わかってきている





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