「ひとんち」
と言われると
「ひとの家」という意味だ
とはすぐわかるが
「ち」だけだと
「家」のことだとは
すぐにはわからない…
などということを考え
ちょっとメモしても
みたのだった
しかし
しばらくしてから
「ち」というのは
そういえば
方角や場所を表わす
古語の接尾語だったなあ
と思い出した
「こち」(=こちら)とか
「遠ち(をち)」(=かなた)とか
「いづち」(=どちら)とか
これらの表現で使われる
「ち」のことだ
「をちこち」などと
現代でも使う場合がある
「遠近」や「彼方此方」と書く
古語のこの感覚が
日本語を使う人の意識の底には
自然と流れ込んでくるので
「ち」が場所を指していると
なんとなくわかるのだろうか
この「ち」と関連しているのだろうが
「ぬち」といえば
萬葉時代の上代語では
「~の内部」という意味になる
日常語ではもう使われないが
古語も現代語もすべて使用可の
和歌の世界などでは
あえて「部屋の中」を
「部屋ぬち」などと表現してみるのも
味わいのうちになる
現在の上皇后陛下が
美智子妃殿下の時代に作った歌に
こういう用例がある
部屋ぬちに夕べの光および来ぬ花びらのごと吾子は眠りて
だんだんと日も暮れようとする頃
後に今上天皇となる赤ちゃんは眠っていて
そのそばにいて様子を見ている
そんな設定の歌だ
「部屋ぬち」という表現は
現代でなら「室内に」と表現しても音数も合うし
ちょっと音数の増える「部屋のうちに」としても
それはそれで味わいが出る
おそらく当時の御歌指南の
五島美代子の教えにならったものと思うが
当時二十代の上皇后陛下が
不必要に古風すぎる響きにさせずに
上代語を使えているところが見事である
「および来ぬ」という表現も
なかなか思いつけないところだろう
「差し込みぬ」とか「のびて来ぬ」あたりを思いついて
もう少しいい表現はないかと探しながら
ずいぶん時間を掛けて検討したのではないか
あるところに至る・届く・達する
という意味の「及ぶ」を思い出し
そこにさらに「来ぬ」を付けるに到るのは
いくつも歌を実作してみればわかるが
なかなか難しい
この表現を持ってきただけでも
この歌は味わい深いが
ここにさらに「花びらのごと吾子は眠りて」
が来る
これがすごい
赤ちゃんが「花びらのごと」く眠っている
などという表現は
これまでの世界文学のどこにあっただろう?
なんら難しくもない言い方で
適所にこういう表現を置けるのをこそ
文学といい才能という
どんな花の「花びら」なのか?
そこまでは
短歌ははっきりさせなくてよい
読む人たちそれぞれが
どんな花だろうか?と考え
あれこれの花を想い描く
読む人たちの心の中には
とりどりの花が咲く
それでいいのだ
言語表現においては
最終イメージや
最終の意味を完成する人は
つねに読者自身である
言語表現の舞台や画面というのは
読者の頭の中にしかない
どんな時も
読後の読者の意識の状態そのものこそが
作品というものである
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