2024年1月7日日曜日

そう、心を捨てよ!

 


 

詩歌とひとくくりに呼ばれてしまう

非有用な言葉ならべは

なるほど

時代の権力側や軽佻浮薄な流行の側の幇間とされがちな

言葉なるものを

なんの力もない個人の側に

すこしでも引き寄せ直し

取り戻そうとする試みではあるかもしれない

 

しかしながら

そうした試みの過程で

方向性がある程度一致した者たちがあいまいに束になり

ひとつの流れができて

たとえば「現代詩」などという虚体を為すかのように演出されたとき

その虚体は

あらたに立派な権力集団となり

その流れに沿わない言葉の使い方をしようとする者たちを

排除し

否定し

詩歌でないと断罪し

ひたすら忘却させようとする

 

もっとも

詩歌のなんらかの傾向やその傾向を持つグループは

虚構を語ろうとする散文と同じように

同じ価値観を守ろうとするメンバーのなかでの認めあいや

褒めあいや

あからさまな賞の与えあいのような

自民党的行為のくり返しをいくら続けても

結局は衰退し

忘却されていく道を辿る

 

いかなる使用においても

たった一語から他者たちとの交通が強制され確認されてしまう

言葉

というものを使う詩歌においては

使用者が否定しようとする時代傾向や民族臭や国家制度や

否定したい他者の価値観や美意識などとの緊密な連関なしには

そもそも第一段階から機能しなくなる

 

象徴的表現やシュールレアリスム的表現

意味の転倒や皮肉や錯乱のふりを多用しながら

いわゆる象牙の塔に籠もって見せようとしたり

なにかメタの意味回路を手に入れたかのような表象界を捏造してみても

そうしたそぶりや工夫が極まっていくほど

いわゆる一般人の読者は加速度的に減少していき

蛸壺化どころか

どこかの僻地の土葬墓地のなかに干からび

忘れられていくばかりの遺骸のようになっていく

 

過去の繁栄に惹かれて

読者のほとんど居なくなった懐メロ形態の詩歌のほうへ

もちろん

吹き寄せられてくる者たちは

廃墟趣味の者たちがいつの時代にもいるように

つねに居続ける

それは

どうしようとご自由に

といった

個人的な趣味の領域の一カテゴリーとして整理され

あまりにも人目を惹かないがゆえに

これといった害悪も発生させないので

どうぞご自由に

広大無辺な言葉ならべの宇宙からは

放っておかれるだろう

 

いや

そんなふうに放っておかれても

かつてブルトンが『マルドロールの歌』を再発見したように

かつて少数の高度の読み手がランボーの価値を認め続けたように

かつてわずかの読み手たちが宮沢賢治を評価し続けたように

「現代詩」やそれに連なる読みづらい神経症言葉ならべ群も

かならずや再発見されて

世界文学の棚に麗々しく飾り並べられ

無数の研究者によって

人類の知的遺産として祭り上げられるであろう

「現代詩」系言葉ならべ趣味のひとびとは信仰を続けているようだが

アメリカ主導の大量生産大量消費システムと

政治と歴史と

人類という奇形生物の本質への考察を怠って

温かい春の川沼の水のなかにワッと湧き出した団塊の世代の

無知蒙昧な動きのエネルギーに乗って

ひたすら虚虚虚虚虚な紙消費が続けられただけの「現代詩」には

将来

大勢の一般人に読まれることはあり得ない

かつて超大作家で鳴らし

いまや完全に忘却されたウージェーヌ・シューならば

小説の言葉使いに特徴的な

一単語一義という徹底性のゆえに

まだ未来で読まれ得るし

大正時代の超ベストセラー作家で

その後完全に忘却された島田清次郎の小説も

同じ理由で

未来において

まだ

読まれる可能性はある

 

しかし

一単語一義を破壊して多義と曖昧をひたすら目指した「現代詩」は

時代が経っていくほど

いっそう読者数は減っていく

これを扱う古典文学研究者は出るだろうし

論文も書かれるだろうが

一般読者が一単語一義破壊と多義と曖昧につき合い続けるのには

どうしても根源的な限界性があり過ぎるので

一般に知らせるには

読みやすく簡単に掻い摘まんでまとめた入門書止まりとなる

もちろん

多量に売れることはないので

出版しようという書肆は少ない

一単語一義の破壊と

多義と曖昧を目指した詩人が比較的多く出た時代があった

という雑学番組が

たまにテレビで企画されたりはするかもしれない

コメンテーターやゲストの感想は

もちろん

決まっていて

「はあ、言葉って、深くて多様なものなんですねえ」

「日本語の可能性をこれだけ追求した人たちがいたんですねえ」

「わけがわからない表現を作り上げたがるのって、人間のサガなんですかねえ」

 

ご愁傷様

というのは

こういう時にふとつぶやいてしまうべき言葉として

ある

 

こうしたことをどうしても思わざるを得ない私

ながら

一単語一義を破壊して多義と曖昧に遊ぼうとする言葉ならべは

接するのに

あいもかわらぬ楽しみのひとつ

 

ただ

じぶんとしては

一単語一義の方向性を強め

多義と曖昧をできるかぎり排除して

言葉ならべはすべし

そうして

散文という色気のない

時代錯誤の単純化され切った記号羅列形式よりは

アポリネールがしっかりと定着させた自由詩形式のほうが

いかなる場合でも

使用には適しているだろう

との認識に立つ

 

そもそも

交通、コミュニケーション、

精神的・霊的位置認識、足場設置などのためには

言葉など

だれもがいつか

しっかりと手放さなければならない

 

病院のベッドで

あるいは

どこかの路上で

イスラエル軍からの砲撃を受けて倒壊したビルの底で

能登地震で倒れた木造家屋の屋根の下で

JAL516便にぶつかられ凄まじい衝撃を受けた海保機のなかで

肉体から分離させられて次の道を進まねばならないとき

言葉も

それを扱う概念・観念構造も

五感による世界像把握も

意識も無意識も

なんの役にも立たない

 

もちろん

人間であることも

生物であることも

 

心も

 

そう

心を捨てよ

 

思念を捨てよ

 

急いで!

急いで!







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