2016年2月1日月曜日

光のような意識だけが花開いていて



眠りのあいだや
覚醒のまぎわ
また眠りに落ちる水際
しだいに体の醒めていく時の流れのあいだに
ためつすがめつ
くりかえし
くりかえし
確認を続けてきた結果

やっぱり
自分というものは
ないんだナ
そう確信してきている
体の死ぬ時
自分というものがあるかのような感覚も
きっとすっかりなくなるはずだが

もともと
ないものなんだから
べつに
どうってこともないわけなのだ

自分
自分
という焦点を軸にしてまわるような
そんな意識も
死とともに
きっとサッパリなくなってしまうだろうが
中心もなければ
思いの向きも
声もない
声の行き来もない
ほのかな光の広場のような
しずかな意識はあり続けるかもしれない
けれど
それはもう
何語も通じないところ
口も舌もなければ
耳もないところ

覚者たちはみな
現世での学びや経験が
死の後にはなんのたしにもならないと言い
むしろ
学びや経験に伴ってこびり付いてくる矜持や慢心が
死後にはたいそうな障壁になると言うんだが
それはそうだろう
知や理のまったく通じないところで
心さえ剥離したところ
けれど光のような意識だけが花開いていて
自分がなく
私という思いがなく
輪郭も区切りもなく
どんな交流も
共同もなく
しかし孤独もなく
闇もなく
はじめもなければ
終わりもないところ
なのだから




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