2019年12月22日日曜日

第三十六計

 

女性詩人のエッセイ集が文庫になっているのを書店で見た。
きらいな詩人である。
いや、きらいというのではないが、つまらない。
ほんとうにつまらない。
読んで楽しいものはなんでも読むたちなので、面白ければ読む。
なんどか読もうとした。
しかし、つまらなかった。
詩もつまらなければ、エッセイもつまらない。
短めの小説まで書き出したので、読もうとしてみたが、つまらなかった。

以来、この詩人の名を見ると、げんなりする。
あれだけ期待して本を手に取ったのに、というがっかり感がぶり返す。
なぜだか、全共闘世代のさらに上あたりに好まれ、持ち上げられていた。
いっしょに朗読をやったこともある。
彼女が脚光を浴びはじめていた頃で、ちゃんと聞いたが、つまらなかった。
生活のなかに見出される詩の瞬間をとらえる、とかなんとか。
幸田文などは大好きなので、生活のなかに…系も、嫌いではない。
なのに、この女性詩人のものは、どれもこれもつまらない。
どうしてこんなにつまらないのだろう、と自問してしまう。
そういえば、向田邦子もつまらなすぎて、数ページで、もう堪えられない。
あれと同じようなものか。
こんなものがずいぶん評価されるようではな、と思ってしまう。
なにか、決定的に欠落している。
いつまでも空に飛び上がらないキーウィ鳥。
それでいて、キーウィ鳥以外の鳥に憧れさえしない。
あるいは、どこまで行っても離陸しない飛行機もどき。
そして、なぜかそれを褒め、ドローンやミサイルを貶める取り巻きたち。
つきあいきれない。
とてもではないが、この国では、ぼくの好みが生きのびられる隙はない。

なんでも読み味わうことができるし、評価する才覚がある。
批評家っぽいそんな才気をちょっと自慢にしてきたので、苦しい。
どうしても評価できない、どうしてもつまらないものに出会ってしまうと。
こう読んでみれば、じつは面白かった、という経験を重ねてみたかった。
けれども、どうしてもダメ。
まるで、ダメ。

それでも、ふたたび、手に取ってみる。
ああ。
つまらない、やっぱり。
麗々しく、かつて若さで鳴らした老作家が解説など寄せて褒めそやしている。
ぜんぜん的外れな褒めそやし。
今回もわざわざ手に取って、努力だけはしてみた。
つまらない、やっぱり。

苦しまぎれ、というのでもなく、
八つ当たり、というのでもなく、
憂さ晴らし、というのに近いものはあったかもしれないが、
遠くないところにあった中国古典の『三十六計』を手に取って、
ぱらぱら、ぱらぱら、ぱらぱら、
やってみたら、
有名な最後の第三十六計に「走為上」とある。
走るを上と為す。
三十六計、逃ゲルニ如カズ。
さすが、中国兵法。
買ってしまう。
面白い。
買わせてしまう力。
こっちには、ある。
こっちには、ちゃんと、ある。




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