2019年12月30日月曜日

これも古い、黄ばんだ堀辰雄




どうも僕の力にあまる仕事のようですが、
ええ、ままよ、おれに出来るだけのことをしてやれ、
といった気もちで……
堀辰雄『菜穗子』覚書Ⅰ



ある時期から
わたしとかぼくとかいう主語を出だしとせずに
書きはじめてしまうようになり
文が二つ三つと並んでいっても猶も
わたしとかぼくとかいう主語を出さないで
できるだけ長く書き続けていこうと努めるようになったものだった
それは谷崎潤一郎の『文章読本』の教えに従った結果でもあるし
わたしとかぼくとかいう主語を出だしとした瞬間に
もう否応もなくトーンが決まってしまい
その後のトーンの操縦の自由さを最初から奪われてしまうので
それを極力避けようとしたためでもあった
しかし時代は
わたしとかぼくという主語を出だしから
あるいは文の二つ三つ目あたりからすぐに持ち出すトーンに
いつからか汚染されてしまうようになって
わたしとかぼくとかいう主語を出さないのは
なにかといえばすぐにわたしわたしわたし
ぼくぼくぼくと言い募る口吻のB級の
あのお新香臭さを避けようとする説明文体やある種の雑誌文体となって
わたしとかぼくとかいう主語を出だしから出さずに
ドライブしていこうとすると
実がこもっていないとか
ビジネスライクっぽいとか
どこか商用文ふうだとか
とにかくも冷たい感じがしてしまうとか
受止められるようになってしまった気がする

……と、
メモふうに記してから
もう
八年ほど経ってしまっている

……と、
ふたたび書き続けようとしながら、「八年ほど経ってしまっている」と
止めて、もう
十九年ほど経ってしまっている

もう
この断片の先を続ける必要はないと思う。
これが記されているページを切り取って、古く黄ばみ出したノートは
リサイクルに出してしまおう。
まだ書けるページはたくさん残っているのだが、
キリをつけるのが大事な場合もある。

ノートの近くにあった、これも古い、黄ばんだ堀辰雄。
新潮文庫の『菜穂子・楡の家』。

「やっぱり菜穗子さんだ。」思わず都築明は立ち上がりながら、ふり返った。

効果的な冒頭。
簡単に読めそうでいながら、
じつはつねに、
核心部分の複雑な堀辰雄。
小林秀雄も投げ出したプルーストばかりか、ジョイスも
はやい時点でしっかり読んでいた、
日本におけるプルースト、ジョイス受容の先駆者。
そんな彼が
わざわざ書くものが
単純であろうはずもないが。
とはいえ、ジイドだよなぁ、やっぱり。
と整理したくもなってしまうが、やっぱり。
(研究者や精読家たちはモーリャックもだ、と言い張るだろうが…

紫式部の「物語の女のここちもしたまへるかな…」
という言葉から
着想された『物語の女』は、
堀にとって
「老境に入ろうとする前の一夫人の、
もの静かな品よくくすんだ感じの、
ロマネスクな気もちと、その古びた日記の詞との間に、
何となく互に通うものが感ぜられた」
ゆえ
創作であった
という。

七年後の『菜穗子』は、
「次いで、その続編として、
そういう夫人を母とした、新しい世代の娘を描いてみたかった。
母とちがって、もっと現実的な生き方をしよう
としつつ、
自己のうちに潜む
母とおなじようなロマネスクな気もちに
苦しめられ出すような、
一人の若い女を描こう
思った
ある」。

「『物語の女』という
或夫人の肖像を
書き上げた直後だった。
その短編の女主人公を母にもち、その素質を十分に受け嗣ぎつつ、
しかもそれに反撥せずにはいられない若い女性として、
その母が守ろうとした永遠にロマネスクなるものを
敢然と自分に拒絶しようとする
若い女性の人生への試みが
私の野心を
そそのかしたのだ」

ヘンリー・ジェームズも、
だろうか…

肖像…
「若い女性」…
永遠にロマネスクなるものを…
敢然と…
自分に拒絶しようとする…




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