女を愛しているわけではないのだ。
吉行淳之介『曲がった背中』
宿には若い女と入った
髪を洗っていると
宿の人から電話がかかっている
と女が呼んだ
シャンプーをいっぱい
髪につけたところだったので
洗い流すのに手こずった
電話は居間兼台所にあるという
寝室を出ると廊下があり
むこうに居間兼台所があった
居間兼台所の中には
大きなテーブルがあり
その上に電話だけが載っている
セルロイド製のように見え
ピンクのような肌色のような
細長い電灯のような華奢な電話だ
「お気分が悪くなられたようで
「心配しましたが
「もうよくなられたそうで…
気分が悪くなったようなことは
べつになかったはずだが
面倒なのでむこうに合わせてしまう
「ええ、ちょっと
「気分が悪くなりましたが
「もう大丈夫です
「そうですか
「それはよかったです
「娘さんがおっしゃってましたので
女はわたしの娘だなどと
宿の女に伝えたというわけか?
どうしてそんな嘘を?
きっと宿の女も
不審に思ったのではないか
そう思うとちょっと嫌な気がした
確かにずいぶん歳は離れているが
なにもわたしの娘だなどと
そんな嘘を言う必要もないのに
そう思いながら
女にわたしの以前の妻の面影が
あるのを思い浮かべる
それだけでなく
その前の妻やさらに前の妻の面影もあるのを
思い浮かべる
そうしながら
宿の女がさらになにか言うのを
電話を手にしながら待っている
しかしいくら待っても
宿の女は次の言葉を言わない
受話器を持ったままなのはわかる
相手がなにも言わない時には
こちらもなにも言わずに
ずっと黙って待つ性質がわたしにはある
受話器を耳にあてたまま
双方ともなにも言わないままで
繋がっている空気感だけが聞こえている
これまで一度もなかったほどの
あまりにぴったりした一致感や密着感がある
繋がっている空気感だけが聞こえている
0 件のコメント:
コメントを投稿