2024年2月3日土曜日

「意識」のひとり舞台性


 


YouTubeのスピリチュアル系の動画で

「意識全開」

という表現を使っているのを見た

 

言いたいことはわかる

多くの対象をいちどに意識に収めたい

できればすべてをいちどに

というのだろう

 

生活のなかでの言語表現でも

わかりやすく

通じやすいかも?

ということで

使ってしまいがちではある

 

しかし

こういう言い方を平気でしつつ

ものを考えようとするから

人間はいつまで経っても

ちゃんとものを考えられるようにならない

 

「意識全開」

という表現は矛盾している

 

体験的にも

だれにでもわかることだが

意識するというのはなにかに照準をあわせることで

いわば

故意に視界狭窄を起こすことである

Aを意識すれば

Bは意識できなくなる

狙撃手が遠距離にある射撃対象をスコープで捉えるとき

彼は

狭いスコープ内の映像として捉えられる存在物以外の

ほかの存在物を「意識」することを放棄せねばならない

自分のすぐ近くの環境さえ無視しなければならない

照準あわせとしての「意識」という機能を活性化すればするほど

捕らえうる対象は狭まる

「全開」という概念とはまったく折り合わない

 

ABも同時に意識することも

できるではないか

仕事や生活のなかでそのようなケースをこなしている

と言うひともいるだろうが

その場合は

ABとをいっしょにひとつの思考平面に載せて処理している

思考が発生しうるこうした条件をはっきりと言語化したのは

ドゥルーズだった

 

あるものから別のものへ

なめらかに

「意識」という照準器のファインダーを移動させることはできるだろう

しかし

あるものと別のものを同時に「意識」することはできない

別のものがある

と思考の奥で知っていることはできる

だが

その別のものをありありと想起し始めれば

はじめに対象化していた「あるもの」は

もう思考の奥の控え室に退いてしまう

「意識」とは表象にひとり舞台を踊らせる場でしかなく

同時にいろいろな踊り手を舞台に上らせうる場ではない

 

人間の「意識」とはなにか

「意識」にどんな能力や特徴があり

どんな危険があるか

そんなことを考える際に

まず

こうした「意識」のひとり舞台性から見直すのは

とても重要だと思う

 

「意識全開」などという

無責任なファンタジー表現に

どうしても引っかかってしまうのは

そのためだ







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