画家の視覚は
「存在の組成(きめ)」に開かれ
「存在の裂開に内がわから立ち合う」*と
『眼と精神』で
メルロー・ポンティはいう
とすれば
画家が描いていくものは
紫陽花の花塊の内側から花のありようを
眺めるようなものだろうか
細胞の内側から
細胞として生起しているもののありようを
眺めるようなものだろうか
ひとつの絵画が
どれほど存在の外面を写生したものに見えても
メルロー・ポンティに従えば
画布に展開されているものは
どこまでも
「存在の裂開に内がわから立ち合」われたもの
ということになる
メルロー・ポンティの思索は
芸術を
「存在の真理への生起」**として受けとめようとした
ハイデガーに沿って
敷衍拡張しようとしたものだが
あらゆる場所にあらゆるかたちで開花し続けているのが
存在である以上
芸術は
「存在の真理」に人間思念を沿わせて
思考の流れのなかに
「存在」の謎を写し撮って考察資料としようとする
小実験室ないしは鏡のようなものだと
わたくしなら言う
「存在」を知るのに
芸術は要らず
ただ
みずから「存在」として存在すればよい
芸術は
どこまで行ってもmediumの呼び込みであり
つねに
「知」における
「知ること」における主体権の移譲に通じる
「知ること」は
意識化さえも回避して
完全なim・mediateでなければならない
意識とは
流動的継起的な鏡であるゆえに
つまり
意識があることは
「知」の主体権の
永遠の放棄であるゆえに
(ここに
「死」と
「消滅」の絶対的な優位が
確立される)
ほかのあらゆることと同じく
imに
要点がある
*メルロー・ポンティ『眼と精神』(1960)
**ハイデガー『芸術作品の起源』(1950)
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