2024年3月27日水曜日

田原坂

 


 

「詩」

という文字においては

やはり「寺」のほうに重点があるのだろう

 

「寺」は「寺」でも

ことばの「寺」だと理解しないと

いけないのだろう

 

祈る場所であり

それも死んだ者にたいして祈る場所であり

たいていの場合は

まわりに墓が並んでいたりする

 

死んだ人に祈る場所とか

死んだ人たちが埋められている墓がまわりにあるとか

そう考えていた時期もあったが

いまでは

死んだことばに祈る場所とか

死んだことばたちの墓がまわりにある場所のように

考えたりもする

 

太平洋戦争後に作られた詩誌『詩学』の終わり頃

毎月の投稿作品の講評をしたり

新人賞の選考をしたりしていたので

編集長の寺西幹仁とよく会った

詩学社のあった湯島の居酒屋〈田原坂〉で飲みながら

なにかというと

寺西幹仁は「詩」という字のはなしをし

ことばの寺なんですよね

ことばの寺なんですよ

などと言った

 

寺西幹仁の前の編集長は篠原憲二だったが

篠原憲二はある日

突然編集長を辞めることにし

寺西幹仁にすべてを任せて去って行った

「突然ですよ

急にやめちゃうんですよ」と

寺西幹仁は嘆いていたことがあった

 

〈田原坂〉は熊本の地名だから

店主だかオーナーは熊本人だったかもしれない

西南戦争の激戦地だが

行ったこともないし

詳しいことも知らない

日本史上最後の内戦といわれ

日露戦争の旅順攻略時の一日あたり30万発の弾丸使用を上まわる

一日あたり32万発が使われたという

政府軍の戦死者は1700人にのぼり

薩摩軍のほうは数千人規模の死者を出した

国家予算の7割が使われたという

 

「田原坂ねえ…」と

飲みながら

篠原憲二はつぶやくように言ったが

東大の経済学部を出て金融業界に勤めた彼は

西南戦争のことも

知らぬではなかっただろう

注文した刺身をつくる板前の腕前を

わたしと篠原は

感心しながら

いっしょに眺めることが多かった

 

なぜだか

中国人の若い女性のバイトが

給仕をやることが多い店だったが

日本語がよくできないので

注文でごたついたり

間違ったものを持ってきたりすることがあったが

篠原憲二も寺西幹仁も

わたしも

ずいぶん寛大に受け入れた

間違った給仕の中国人が

奥で店主から怒られているのを見ると

「かわいそうにねえ」

などと言って

お猪口をまた

のんびり

口に運んだりした

 

ふいに家出するように篠原憲二が『詩学』を離れ

あとをぜんぶ任された寺西幹仁は

どんどん売れなくなっていく詩誌を抱えてずいぶん奮闘したが

編集室で夜までひとりで仕事をしていた時に急死し

不審に思ってやってきた家族に翌日発見された

これを以て『詩学』は廃刊となり

詩学社も消滅した

 

寺西幹仁は

いずれ

わたしの詩集をじぶんが作る

と言っていたので

彼が死んでしまったあととなっては

もう

だれも作る人はいなくなった

 

死んだことばに祈る場所とか

死んだことばたちの墓がまわりにある場所のように

「詩」を考えることが

いつ頃からか

多くなった

 

月々の講評の仕事が終わって

篠原憲二と寺西幹仁ふたりで社内を整理し

詩学社を出て

鍵閉めをし

「それじゃ、〈田原坂〉に行きましょう」

と歩き始める

 

篠原憲二の居なくなった後は

寺西幹仁とわたしふたりだったが

やはり

鍵を閉めた詩学社の前で

「それじゃ、〈田原坂〉に行きましょう」

と声が響いた






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