2018年5月27日日曜日

文体や語尾のことについてはナ



わたくしは故意に
「~だなァ」
「~かもネ」
などと
文末にカタカナを使うことがある

ある種の
文芸的文盲の人々には
これが
ずいぶんふざけた
いい加減な
表記のように見えることもあるらしく
時には
その人々の無知蒙昧さを
恥ずかしげもなく露呈して
「なんですか、あれは」
と言ってくることさえある

なんですか
って
開高建がよくエッセイで用いた語尾さネ

彼ばかりでなく
あの時代
いろいろな作家が
ユーモアと軽みをひょいと出そうという時
あんなカタカナづかいをしていた
吉行淳之介だって
安岡章太郎だって
遠藤周作だって
みんな使っていただろう

大衆文学にはなり切ってしまわないところで
中間小説のテイスト程度のところで
ぎりぎりで止まり
気まじめな言説にもサッと移行できるような語尾や文体が
わさわさと蠢いていた時代だ

そんな語尾を使わないで
ユーモアを出す井伏鱒二のような作家もいたし
超然と古風な文体で書いていた小林秀雄もまだ健在だった

詩歌寄りのほうでは
吉本隆明が「もんだい」などと
ややこしいはずの単語を平仮名書きをしていた頃でもある

せめて
戦後文学から中上健次ぐらいまでは
代表作ぐらいぜんぶ読んできてから
口を出すようにしろよ
文体や語尾のことについては



堀口大学訳の「失はれた美酒」



ポール・ヴァレリーの詩「消えた葡萄酒」の場合
鈴木信太郎訳が決定訳ということになっている
わたしもそれを先ず読んだし
フランス語と比べながら読むには
便利でありつつも的を得ている訳で
労作でもあり名訳ということになろうか
岩波文庫の装丁も合っていて
あれをいつも持ち歩く人生の一季もあった

けれども
堀口大学の訳を読んでみると
鈴木訳では感じられないような動揺が
こころのどこかにうずうずと始まって
急速にかつ複雑に感動が募っていくばかりか
ヴァレリーの本当に伝えたかったことが
こころの震えとしてこちらに染みてくる気がする


失はれた美酒

一と日われ海を旅して
(いづこの空の下なりけん、今は覚えず)
美酒少し海へ流しぬ
  「虚無」に捧ぐる供物にと。

おお酒よ、誰か汝が消失を欲したる?
或るはわれ易占に従ひたるか?
或るはまた酒流しつつ血を思ふ
わが胸の秘密のためにせしなるか?

つかのまは薔薇いろの煙たちしが
たちまちに常の如すきとほり
清らかに海はのこりぬ…。

この酒を空しと云ふや? …波は酔ひたり!
われは見き潮風のうちにさかまく
いと深きものの姿を!


ずいぶん思い切って訳しているところもあって
翻訳の岸から翻案の岸へ
飛び移ろうとして
ひらり
飛び返るところがあるが
ヴァレリーのあの詩をこう訳すわけかと
感嘆させられるほかない絶品と言わざるを得ない
がんばってフランス語で原詩を読むよりも
たぶんはるかに多くの滋味と感動を与えてもらえる
しかもヴァレリーの真意にも近道から導いてもらえる
どうだい、ヴァレリー、いいだろう?
と読んでない人にも勧めてみる気にもなれるような
そんなとんでもない訳業である

翻訳はおそらく古典劇を演じる俳優の演技に似ている
原作や原語に忠実であろうとし過ぎれば意図と精神を取り逃がす
いったんすべてを呑み込んで消化し切って
じぶんの自我だの人生だのはかたちも失うほどにぐにゃぐにゃにしてから
あらたな筋肉や動作や汗や体臭として物質化し直さなければいけな
慶応を中退する時はフランス語の点数で不可を付けられた堀口大学
外交官の父の後妻となったベルギー女性と話すために自ら猛勉強したのが
やはり相当に効き目が出たということだったのか
与謝野鉄幹から永井荷風に推薦され
慶応で佐藤春夫と終生の親交を結ぶだけの感性にくわえ
パリではマリー・ローランサンの愛人となってしまうだけの
生まれつきのエスプリと瀟洒さと
遊び心と言葉の冴えを持ってもいたからか



そんなこんなで何十回読んだとも知れない…



ゆくりなくも
ひさしぶりに木下夕爾の詩を読んで
「ひばりのす」など
まァ
なんて絶品なんだろう
と感嘆し直した


ひばりのす

ひばりのす
みつけた
まだたれも知らない

あそこだ
水車小屋のわき
しんりょうしょの赤い屋根のみえる
あのむぎばたけだ

小さいたまごが
五つならんでる
まだたれにもいわない


詩の好きなひとなら
こんな詩を読みたいと思うだろうし
こんな詩を書きたいと思うだろう

こども向きじゃないか
ずいぶん単純じゃないか

そう言われても
けっきょく
本屋や図書館のかたすみで
ひとをドキリと不意打ちできるのは
こんな詩なのだ

ぼくはむかし
20年ほど
塾で国語を教え続けた
できる子も
できない子も
たくさん
いた

できない子たちの多いクラスで
ほかの読みやすい詩とあわせ
木下夕爾のこの詩を
のんびり読んでいたこともある
ヒバリの巣など
もう見たこともない
見れる環境もなくなった
そんな時代の子たちも

あそこだ
水車小屋のわき
しんりょうしょの赤い屋根のみえる
あのむぎばたけだ

と言われると
ちょっと
楽しかったようだ

赤い屋根のしんりょうしょって
いいよね
水車小屋も
わきにあるんだってさ

そんなことを
言うともなく言っていると

なんで
しんりょうしょ
って
ひらがなで書いてるの?
とか
それに
むぎばたけ
ひらがな
ぼくだって
むぎばたけくらい
漢字で
書けるよ

そう
言いはじめる子が
出てくる

…来た!
…ここだ!
先生役のぼくは思い
なんでだろうね?
とほかの子たちにも
問いかけはじめる

そんな
こんなで
何十回
読んだとも知れない
木下夕爾だ



持ち出してくるべきやもしれぬところぞなもし



ぶっきらぼうな
その上
ちょっと偉そうな
そして
古風でもある

そんな文体を
埃だらけのことばのお道具箱から
取り出してきて
ときどき
使ってみている

「~だ」
「~である」
ときには
さらに
「~なのである」
等など

インターネットの端末を
まるで注文機を手にしたファミレスの店員のように
まるで通信機をつけっ放しの警察官のように
だれもがあたり前に持って
文字や映像に触れ続けの現代では
気どったり
ひねったりした
文体の妙を装ったりしていると
もう
もう
もう
どんどん読まれなくなる
語尾ははっきりしている必要が増し
見て取りやすい長さの一文で
観念のワンシーンをちゃんと完結させてくれて
表現上のヘンなひっかかりなど
なるべく付けないで
スムーズな文の流れを拵えてもらいたい
可能性読者たちは
だれもかれも
そんなご要望をお持ちである

ご要望は内容にまで
ずんずんおよびつゝあり
喜怒哀楽なんぞも
なるべく単純なもので済ましてほしいようである
いいものをいいと言う時には
きれい
かわいい
やばい(→やばorやべ)
ぐらいの形容詞使用に制限すること
そうしないと
読者やめちゃうゾ~
視聴者やめちゃうゾ~
とにかく
受け手ファースト
顧客ファースト
の時代なんであるからして
使用単語や
使用感性や
使用観念の
徹底した制限は
言語商売界では至上命令なのである
色鉛筆でいえば
せいぜい10色ぐらいまでの使用に抑える
20色だの
30色だの
50色だの
そんなのは
もう
もう
もう
とんでもない
時代おくれなのであります

こんな時代に
「~だ」
「~である」
ときには
さらに
「~なのである」
等など
けっこうイケる
と感じる
のである

だいたい
まるでナポレオンⅢ世時代の凡庸ブルジョワ脳たちの甦りのような
内容のない空疎な保守化もはなはだしいので
表面上は保守化も極まったこれらの語尾は
凡庸ブルジョワたちには受けもいいはずなのである
ここはひとつ
わたし
だの
わたくし
だの
ぼく
だの
という一人称もお道具箱に仕舞って
我輩
とか
とか
とか
持ち出してくるべきやもしれぬ
ところぞな
もし


地味でしずかなこんな悲惨は…



悲惨とは
どういうことであろうか…

これという必要もなかったが
ある人と話していて
その人の伯父さんの話になった

戦後すぐに亡くなったというその伯父に
この人は会っていない
古い古い話である
この人ももう年配の人である

長く続いてきた家業に熱心で
小さな店ながら
心血を注いできた伯父だという
しかし戦争がひどくなっていく中
中小商工業者統制で家業は奪われる

しかたなく徴用された先の仕事に出て
一介の薄給労働者となる
家業の技術も経験も勘も生かせない
愛着も持てない馴染めない仕事のせいで
おのずと過労は蓄積され
心労が重なって胸を病むに到る

唯一の財産は古い家屋だったが
強制疎開でそれも取り上げられる
なんとか見つけて移り住んだ家は
B29の爆撃で焼失してしまい
悪化の一途をたどる病を抱えながら
あるかなきかのツテをたどり
ほそぼそと人の好意にすがり
北国の寒村に逃げたものの
敗戦後すぐの秋のはじまりに
とうとう三十半ばで尽きたという

臨終の際に弟の手を握って
ぼくの人生はどうしてこんなに
運が悪かったんだろう…
とふかく嘆いたという

戦場でひどい死に方をしたのなら
いかにも悲惨ということになろうが
じゅうぶんに健康でなかったので
そんなあきらかな悲惨は免れ得たものの
じわじわと持たざるほうへ
貧困や病へと追い詰められていく
地味でしずかなこんな悲惨は
いったいどういう天のたくらみだろう

死んでいく兄の手を握りながら弟は
せめて健康でさえいたならば…
と兄の人生のifを想像してみたが
いやいや、そうだったなら
もっと悲惨だったことだろう
兵隊に取られて激戦地にやられ
遺体さえ回収しようのない死にざまを
きっとさせられたことに違いない…と
すぐに想像を打ち消したという

兄が家業を営んでいた地方の軍が
南方のとある激戦地に送られ
ほぼ全滅したらしいとのうわさを
弟は耳に入れていたからである



もう少し鈍く



飄蕩孤斟異郷酒*

とは又
うまく一行で言い切ったもの

そうして
頼醇は

七年風月在天涯

と結ぶのだ

ちょっと
かっこ
よすぎるけどね

もう少し
鈍く
綻ばせるべきではある
言語表現は

とりわけ
詩歌
においては



 *頼醇(頼三樹三郎)「東遊帰後同藤井雨香飲鴨涯旗亭」



他人の翻訳をかっぱらう三好達治



三好達治はフランス語もよくできたが
他人の翻訳をかっぱらう名人でもあったらしい

河盛好蔵がジッドの『コンゴ紀行』翻訳の際のことを書いている*

昭和八年に建設社という無名の本屋からジッド全集を出すことにな
河盛は『コンゴ紀行』の翻訳を受け持つことになる
しかし長い作品なのでなかなか進まない
持て余していると三好が手伝ってくれることになった

どういうわけだか
三好はこの翻訳をまたたく間に訳し終えてしまい
河盛はずいぶん驚かされることになる

ジッド全集は金星社からも先に出版されていて
そちらのほうの『コンゴ紀行』は早稲田の根津憲三が訳していた
金星社版は早稲田や慶応の教員たちが訳しており
建設社版のほうは東大や京大の教員が関わっていた
あるとき根津訳の『コンゴ紀行』を見ていた河盛はびっくりした
三好の翻訳は根津訳そのままだったのだ
ところどころ文章を直して和文和訳をしているだけ

根津憲三は杉捷夫に「ずいぶんひどいと思つた」と言ったらしい
友人だった河盛はそれを杉から伝えられた
三好は杉の訳したメリメの『コロンバ』も和文和訳し
ところどころを変えただけで自分の訳として出版してしまっている
そうして「杉は翻訳は下手だね」と河盛に言っている
「書く文章はうまいのに、どうして翻訳はだめなのかな」と

早稲田の根津憲三というのは
わたしの指導教授だった加藤民男先生の恩師であり
この人の後を襲って加藤先生は教授となった
「地味な人で、もう君らは知らないだろうけれど…」と
加藤先生はときどき根津教授のことを語っていたが
もちろんわたしには具体的なイメージは想像しようもなかった

三好達治のこの翻訳の件は加藤先生も聞かされていただろう

詩人であった窪田般彌教授と言うに言われぬ大問題を抱え
詩人でありイヴ・ボヌフォアの翻訳者でもある清水茂教授のことも
いろいろと批判し続けていた加藤先生は
詩人や歌人をひどく嫌っていて
詩人でも歌人でもないにもかかわらず
詩や歌を酔狂にひねり続けていたわたしにも八つ当たりは来て
ずいぶんわたしも割りを食ったほうだが
三好達治の所業などは許しようもない極悪のものと見えていただろ

それなりの格式のある詩人の最後のひとりだった三好達治が
恩師根津憲三の翻訳をかっぱらったとあっては
加藤先生が詩人なるもの一般を嫌うようになったのも
いたしかないというものかもしれない

格式もなければ
詩人でもないわたしが
非詩人として
仮に
先生に対してなにか振舞おうとしたところで
やはり
どうにもならないことであっただろう



*河盛好蔵『三好達治』(中央公論社『海』所収、昭和五十二年十月)