ぶっきらぼうな
その上
ちょっと偉そうな
そして
古風でもある
そんな文体を
埃だらけのことばのお道具箱から
取り出してきて
ときどき
使ってみている
「~だ」
「~である」
ときには
さらに
「~なのである」
等など
インターネットの端末を
まるで注文機を手にしたファミレスの店員のように
まるで通信機をつけっ放しの警察官のように
だれもがあたり前に持って
文字や映像に触れ続けの現代では
気どったり
ひねったりした
文体の妙を装ったりしていると
もう
もう
もう
どんどん読まれなくなる
語尾ははっきりしている必要が増し
見て取りやすい長さの一文で
観念のワンシーンをちゃんと完結させてくれて
表現上のヘンなひっかかりなど
なるべく付けないで
スムーズな文の流れを拵えてもらいたい
可能性読者たちは
だれもかれも
そんなご要望をお持ちである
ご要望は内容にまで
ずんずんおよびつゝあり
喜怒哀楽なんぞも
なるべく単純なもので済ましてほしいようである
いいものをいいと言う時には
きれい
かわいい
やばい(→やばorやべ)
ぐらいの形容詞使用に制限すること
そうしないと
読者やめちゃうゾ~
視聴者やめちゃうゾ~
とにかく
受け手ファースト
顧客ファースト
の時代なんであるからして
使用単語や
使用感性や
使用観念の
徹底した制限は
言語商売界では至上命令なのである
色鉛筆でいえば
せいぜい10色ぐらいまでの使用に抑える
20色だの
30色だの
50色だの
そんなのは
もう
もう
もう
とんでもない
時代おくれなのであります
こんな時代に
「~だ」
「~である」
ときには
さらに
「~なのである」
等など
は
けっこうイケる
と感じる
のである
だいたい
まるでナポレオンⅢ世時代の凡庸ブルジョワ脳たちの甦りのような
内容のない空疎な保守化もはなはだしいので
表面上は保守化も極まったこれらの語尾は
凡庸ブルジョワたちには受けもいいはずなのである
ここはひとつ
わたし
だの
わたくし
だの
ぼく
だの
という一人称もお道具箱に仕舞って
我輩
とか
余
とか
朕
とか
持ち出してくるべきやもしれぬ
ところぞな
もし
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