2018年5月11日金曜日

文芸書が一部しか拵えられなくなってから



いつ頃からでございましょうか…
詩歌であれ
小説であれ
文芸書が一部しか拵えられなくなったのは

本のかたちができてから
大量に印刷する時代が長く続いてきて
つねに大部数が出回り続けるのに人類が慣れていったのも
たぶん200年ほどのあいだ
その後はいつのまにか電子データを
いろいろな端末で読む時代になり
本のかたちは続きはしたものの
誰もが端末によりけりのレイアウトや字体で読むようになり
数ミリの差や色あいや字体に賭けていた
装丁の妙はもはや顧みられない時代に突入しておりました

それはそれで便利なところもありましたが
文芸作品を書こうと望む人たちや
あれこれの娯楽や興味深いものが目白押しの世界で
あえて文芸作品を読むことに時間をかけようという人たちが
…そう
あれはいつのことでしたでしょう
皆が皆
揃いも揃って
作者や選りすぐりの装丁家や製本家たちがいっしょになって
手間暇かけて作りあげるたった一冊の本こそ文芸のあるべきかたち
と思われるようになったのは

作品を収めたたった一冊の本は
図書館にていねいに保管されることになり
公開されてはいるものの
読みたい人は順番待ちをし
番がまわってきていよいよ本を手にする時には
特性の絹の手袋をかならず嵌めて
ていねいにページを捲っていくのです
ページといっても
念には念を入れて拵えた特製紙で
そこにはやはり特別のインクで特別の印刷がなされていたり
あるいは作者自身の手でペン書きや筆書きで
文字が記されていたりしますから
けっして脆弱な作りではないものの
本当にていねいに扱わねばならないと思わせられるのです

写本することは許可されており
読む人が本を開いている際
特殊技術で別室のスクリーンにページが克明に映し出され
それを多くの人が筆写していたりします
そんなふうに写本する人たちも
一度は現物に触れて読んだりしているので
文字配列の映像だけで満足してしまうわけではありません
また
読んだ内容を記憶して
家に帰るたびに写していく人も多く
大昔の稗田阿礼や太安麻呂への関心が高まることになったのも
故なしとはしないでしょう
そうして写された写本の数々は
写した人たちによって原本との相違がないようにチェックされ
製本や装丁などの出来のよいものは
あくまで写本としてですが
図書館に収められる場合も増えてきています

いずれにしても
本が溢れていたり
電子データに載せられていた時代と違って
最近の文芸作品といったら
たった一冊しか存在しないというのが普通になりましたから
たいそう面白い本らしいという噂や
読んだ人たちが口づたえに広める評判などを聞きながら
はやく自分でも読める番が
来ないものか
来ないものか
と首を長くして待ち続けるのも
文芸作品の味わい方の重要な段階のひとつとなったようです
番を待っていて
まだ読んでいない人たちが集まるカフェや
そういう人たちのサークルが
各地にできて活況を呈しているのもあたり前の光景となりました

とにかく
作者自身が思い思いの意匠を凝らし
さまざまなインクや色や大きさで文字を記したり
あるいは装丁家や書家やカリグラフィーの専門家といっしょに
ページを作っていくものですから
作品を収容している本をじかに目の前にする驚きと喜びは
かつての量産本に対する時とは比較にもなりません
目の前の一冊が唯一無二の芸術作品でもあるので
こういう読書体験は
文芸作品というものの概念を激変させてしまったといえそうです




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