2018年5月4日金曜日

よく生きるというのは…



よく生きるというのは具体的にはどういうことなのか

考えながら
由緒ある公園のあふれるばかりの緑の中を歩き
ツツジの香りに浸された亭に休んで少しウトウトとし
いくつもの夢を走馬燈のように見た後
水筒の水を飲みながら
まだ覚えている夢の世界に浸り直し
そうしながら猶も
考え続けている

よく生きる
ということは
うまく生きる
とか
時間を無駄にせずに生きる
ということに
表現をすぐスライドさせてしまいやすいが
そう言ってしまえば
もう
よく生きることを捉えるのは不可能になってしまう

うまく生きる
とか
時間を無駄にせずに生きる
とか
与えられた生の素材(時間、体力、才能、環境、人間関係…)を
フルに生かし切って生きる
とか
そういったこともそれなりの価値ではあるので
けっきょく
それらを
よく生きる
ということと考えるようにすればよいではないか
という立場も現われてくる
それらに陥るのを避けようとすれば
すぐに
自分なりの主義を貫いて生きる
といった
一見潔いようでも
実際には硬直した愚かな一徹さに陥りやすいので
繊細かつしたたかな思考力のない人が
不用意に考えようとするのも
すこぶる危険な領域であるということになる

よく生きるというのは具体的にはどういうことなのか
という問いを抱えながら
わたしは公園の緑の中をゆっくりと歩み
ツツジの香りに浸された亭に休んで少しウトウトとし
速駆けして行ったいくつもの夢の
余韻から余韻に移り飛んで
あたかも泉鏡花の作品によくあるかのような趣で
初夏の昼間を過ごしていたのだが
よく生きるというのは「具体的にはどういうことか」というところが
至極重要であると
今さらながらに再確認せらるるように感じられてきたのである

生きることに関する問題は
つねに
「具体的にはどういうことか」と考察されねばならない
具体的でないことなどこの世にはひとつもなく
物質的法則のみで織り上げられているこの世では
いかなる夢も希望も理想も喜怒哀楽も
具体的な物事の糸や網や層のかさなりによってのみ構築されている
よく愚かな学者などが
自由な発想だとか自由な国だとか自由な言論だとか言うが
そう言う時の自由とはなにかと具体的に事細かに吟味されていなければ
自由という単語はこういう場合なんの意味も為さない
米内光政の海軍大臣時代の衆議院答弁をよく思い出すが
こういうものだった
「自由経済とか統制経済とか申しますが、自由にも統制があり、私としては自由経済と統制経済の中間に、どこか見極めをつけるべき点があると思います。もちろん諸般の改革はこの際必要でありますが、ラディカルな改革は混乱を生みます。レボリューショナリー(革命的)でなくエボリューショナリー(発展的漸進的)に行くべきであると信じております」
自由という単語の危険さのよくわかった大臣がいただけ
じつは戦中の日本には遙かにまっとうな精神状態が残っていた部分がある

ある事柄に心や思念がこびりつくようになるのは
まことによくあることであり
そういう時には時間はアッという間に過ぎていってしまって
やるべきだった他のことや
やりたかった他のことなどが
やれないままに日暮れを迎えてしまうということが誰にでもあろう
そういう時に
あゝ自分は今日という日をうまく生きられなかった
と思ったり
さらには
今日という日をよく生きられないで終わってしまった
と思ったりすることもある

しかし
それでは
ある事柄に心や思念がこびりつかないように
やるべきこと
やりたかったことなど
つまり
切片化されたテーマのひとつひとつに
巧みに石渡りしていくように
ぽんぽんと
ひょいひょいと
心や思念を
つまりは意識の動的な先端部分をたえず移動させていくのが
はたして
よく生きる
ということになるのか
そう考えると
これははなはだ怪しい方向性であると思わざるを得ない

(それにしても
(こう記しながら
(わたしはこの21世紀ニッポンにあって
(なんと自由詩形体を底抜けに自由に扱える開拓を行えたことか
(といくらか満足する
(特に19世紀から蔓延するようになってしまった抒情詩方向の
(狭い詩観をわたしはとうに粉砕し
(もはや象徴詩や超現実主義詩にも陥らずに
モンテーニュ的エセーをそのまま内実とする書法も取れるようになった
(もちろん先代、先々代の諸詩人たちの開拓があってのことで
(たとえばこの書きもののはじめのほうには西脇順三郎さんや
(デュ・ベレーさんやパウンドさんのやり方に学んだところがあり
短歌も自由詩も内的思索の具とした吉本隆明さんのやり方も見えている

いま意識の中に浮かんでいるテーマからテーマへ
巧みに石渡りしていくように
ぽんぽんと
ひょいひょいと
跳躍も着地も的確に移って行くのが
よく生きる
ということならば
あらゆる瞬間は
過去の自分によるテーマ設定の後を辿ることだけに費やされるのであり
そのやり方を貫徹すればするほど
自分の意識を超えた新たなる予想外の富の闖入は期待しえなくなる

それが
はたして
よく生きる
ということなのか

過去の自分の価値観や計画に管理され続け
それに従い続け
新たな再来不能の時間の数々を
自分の過去によってすっかり染め上げることが?

ここに
当概の時代や社会という変数が入ってくると
よく生きるには?
という方程式はいっそう難しくなり
よく生きているつもりでいて
じつは時代や社会に流されているだけ
となりやすい
数十年後や
数百年後になれば
流れに乗せられ流され続けただけの
その一時代の民衆や群衆の一個体としか見えなくなる

森鴎外『青年』第十章
  「そんならどうしたら好いか。
生きる。生活する。
答は簡単である。併しその内容は簡単どころではない。
一体日本人は生きるといふことを知つてゐるだらうか。小学校の門を潜つてからといふものは、一しよう懸命に此学校時代を駈け抜けようとする。その先きには生活があると思ふのである。学校といふものを離れて職業にあり附くと、その職業を為し遂げてしまはうとする。その先きには生活があると思ふのである。そしてその先には生活はないのである。
現在は過去と未来との間に劃した一線である。此線の上に生活がなくては、生活はどこにもないのである。
そこで己はなにをしてゐる」

鴎外も漱石も近代日本人の病の在り処をとうに見抜いていた
彼らが小説にそれを描き出しておいてくれたのは有難いことである
しかし小説はある具体的状況を仮構して問題を描き出すことはできても
舞台展開を破綻させることはできないので問題解決はできない
ブレヒトのように異化効果を用いる方向性はあるが
そんな方向を採ればもう民衆からは見向きもされなくなる実験作品となる
チェーホフのように時代の鏡になり切ろうとして
人間というものの日々の小さな愚行を観察し続ける行き方もあるが
それとて読み手の受容力や読解力あっての話である

時代や人類の大問題を扱おうとした小説も
すでにほぼ読まれなくなった情報的に忙し過ぎる現代にあって
言語配列形体における最良の器はなにか
と思案した結果として
どうせ何をどのかたちで書こうとも
時代と人間の病に真摯に向き合おうとする場合には
すでに断じてまっとうに読まれることはないと厳しく観察したので
わたしは自由詩形体を選んできた
読まれないのならば小説を拵えるのは愚かであり
俳句や短歌もいっそう読まれないマイナー形体である以上
そこに熱情を込めるのは愚かであり
自由詩形体も愚かさでは負けないものの
短時間で処理できる物質的便利さには格別のものがある
と判定されたからである

よく生きるというのは具体的にはどういうことなのか
というテーマを
わたしはこの言語配列の冒頭に置いたが
こんなテーマを処理するには
俳句はだめ
短歌はだめ
小説もだめ…
ということがわかり切っている

こんなことを思ううち
もう陽もだいぶ下がって来て
澄明な夕べの空気が
緑の蔭のそこここに染み出してきている

よく生きるというのは具体的にはどういうことなのか
というテーマは
わたしにあってはとうに解決済みだが
それを十分に言語化し終えてはいないので
いずれ
また扱うだろう

プラトンの対話編のような方法も
とてもよいのではないかと
やはり思える
世界の文学史においては
あれの発展形として小説があったということだろうが
小説の娯楽面や描写面への欲求が高まり過ぎた結果
テーマの純粋な追求には向かない形式となってしまったのだった
娯楽面や描写面への欲求の高まりは
おそらく有閑ブルジョワジーの繁茂から発生してきたものだろうか
ここでもやはり
敵としての19世紀というものが現われ出てくることになる




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