ある大学の教員室に居たら
授業に出席してこない学生たちに手を焼いた
(大学生相手だというのに)
漢字や読解を教えたりする国語の先生が
言っていた
バイトで授業に来れないのは
仕事があるから来れない
と学生は言うんです
でも
授業に出席するのも
学生には仕事のはずではないか?
どうしてバイトという仕事には行って
授業という仕事には出ないんだ?
おかしいではないか?
そう言い聞かせました
馬鹿だなあ
この先生
と
思った
授業に来てもらいたくて
学生を授業に来させるような理屈を言いたいのはわかるが
小学生相手に言うわけでもなし
「授業に出る」のが「仕事」であるはずはないだろう
古い言い方で「本分」と言うとか
学生という立場にある者がなすべきこと
と言ってみるとか
そういうのならわかるが
「授業に出る」ことは「仕事」ではない
その立場にある者がしなければならないこととして
「授業に出る」ことと「仕事」とのあいだの
同構造のようなものを抽出して言ってみたいのだろうが
考えれば考えるほど
このふたつのあいだには大きな相違がある
そもそも
「授業に出る」ためには
高額な授業料をあらかじめ学生側から支払ってある
学生たちは「授業に出る」権利を買ってある
買ってあるものを有効に使おうが
使わないでおこうが
それは学生たちの勝手
もちろん
あらかじめ払ってある授業料では
単位取得権までは購入できてないので
「授業に出る」ことや試験などの評価にパスすることなしでは
単位はもらえない可能性もある
そこの部分では教員側の権利が行使される
「授業に出る」ということをめぐって
教員側が学生に言うべきことは
あらかじめ払っている高額な授業料に見合った権利行使をしなさい
それはけっして「仕事」なんかではないけれど
せっかく買ってある権利なのだし
支払った財を然るべくしっかりと運用することにしなさい
というようなことのはずだ
バイトという「仕事」は
「授業に出る」という行為とはまったく違う
バイトの「仕事」に行くという権利は
あらかじめこちらから支払いをして購入したものではない
「仕事」に行くのは労働法的に契約されたことであり
結んだ契約による義務の発生を受け入れたことになり
契約を守るためには「仕事」に行かなければならない
「仕事」に行くという契約を守り
然るべき「仕事」をすれば賃金がこちらに支払われる
購入という言葉にこだわれば
むしろ労働力を購入するのは雇い主側ということにもなる
バイトという「仕事」に行く
という行為は
ほかにもいかようにも分析や考察を広げられる行為で
授業料のあらかじめの支払いによって買われた権利を行使しての
「授業に出る」行為とは
みだりに比較されていいようなものではない
この国語の先生は
たぶん
マルクスもまったく読んでいないだろうし
その他の経済思想や
法律論なども読んだことがないだろうし
初期のマルクスが生成してくるベースのヘーゲル哲学や
その他のドイツ観念論や
もちろんホッブスやロックやルソーなども
フランス革命のイデオローグたちの
微細で複雑な政治思想も
読んだことがないのだろうなあ
と思わざるを得なかった
ろくな哲学的思弁を構築できない教師なら
学生たちにはたんに
「授業に出てこないと単位は上げられないよ」
とだけ言えばいいのである
調子に乗って
それ以上のヘンな理屈を言いはじめると
国語程度の論理構造から出たことのない連中は
かならず賢さを装ったバカ論理を作り出す
この大学の偏差値は
受験情報によれば35~40である
商学部の偏差値は37.5
法学部の偏差値は40
新設の現代教養学部の偏差値は35だそうな
ま
最低である
この大学については
話すべきことは無限にあり
いずれ
一大娯楽物語として
ながながと
語ろうと思っている
教員側や
運営側
理事側の内実を
あまりに
知りすぎているゆえに
ところが
おなじ大学でも
なぜか
わたしの法学部の教室には
2年生にして
日商簿記2級や行政書士試験に合格している学生がいたり
学士編入して医学部に行きたいとか
公認会計士を目指している
という者もいる
ま
たいしたものである
法学部の偏差値は40だが
大学は奨学金をもらって
家に近いところに通い
(低位レベル校に行けば
並み以上の学力の学生は
奨学生になれるので
授業料の節約ができる)
身につける勉強は専門の学校や
大学外部のコースに通って学ぶ
というサバサバした考え方の学生たちも
じつは増えてきている
そういう学生たちは
偏差値35~40の大学であっても
反応がとてもいいし
よく学んでいる
多種多様な
いろいろな意味で
日本の大学は
完全崩壊してきており
ならば
教える側も
学ぶ側も
大学の枠をぶっ壊したつき合い方をしたほうが
いい頃合いに
なってきている