ジャーナリストは所詮政府の走狗ばかり
福沢諭吉
にっぽんの世の中を
世間とやらを
ふつうにポーッと眺めているだけで
目も
こころも
汚れますのゥ
ま
むかしから
そうじゃったんだが
のゥ
蜂の一刺し
とか
ノーパンしゃぶしゃぶ
とか
もっと古いところでは
阿部定
とか
(おや
阿部定さんは
昨今の東山紀之さんと
ソーセージつながりですナ
阿部定さんは
ちょん切っちゃった
けど
ネ
食わなかったみたい
ですナ)
善良なる世のパパたちとしては
あまりわが娘には
見せたくないような
事件
出来事に
事欠かないお国柄で
ございます
のゥ
だいたい
初代総理大臣の
伊藤博文からして
明治天皇が気を揉むほどの
度を超した女遊びさん
伊藤博文の顔が紙幣に印刷され
銅像が建立された際には
「よりにもよってこんな下劣な奴を!」
と明治天皇は激怒していたとか
1000人の女性と性交したと豪語し
掃いて捨てるほど女がいるということから
「箒」という渾名もついていた
無限のヤリっぷりが信条の伊藤博文
金に糸目をつけずに
女買いをしまくるので
ついには家を売る羽目になって
そうして首相官邸というものが
準備されることになった次第
女癖の悪さでは
やはり有名だった渋沢栄一も
その点を突かれて自己弁護する際の言い草は
「わが行いの悪さは
伊藤博文と井上馨の影響なり」
などと言う始末
伊藤博文が水揚げした女たちの中でも
いちばん若かった
というより幼かった小雄ちゃんは
なんと13歳で身請けされて
大磯の滄浪閣に連れて行かれましたナ
あまりにわがままを言う子で
忍び難きを忍んできた
妻の梅子さんもこれには参ったとか
妾を持つとか水揚げだとか
そんなことには慣れっこの世間でも
一国の総理大臣が13歳のお妾さんを持つとは
さすがに不気味がられた次第
見境がない伊藤博文にとって
相手は芸者だけではない
明治20年の鹿鳴館での仮装舞踏会では
岩倉具視の三女の伯爵夫人
美貌の評判高い戸田極子に一目惚れして
彼女を一室に連れ込み無理矢理「関係」しようとした
極子は窓から飛び降りて
裸足のまま人力車に乗って逃れたが
「大野心を充たさんが為の卑猥なる遊戯会の開催」
「官邸の裏庭で鹿鳴館の華と情交に及ぶ」
などなどとさんざんの書かれよう
これは悪評高かった鹿鳴館外交に
さらに醜聞のイメージを塗りたくることになり
鹿鳴館が廃れていくのを早めた
巷では
ヒヒ爺!
マントヒヒ侯!
売淫国の棟梁!
女たちに万斛の涙を飲ませる象徴!
だなどと伊藤は呼ばれ
人気のあった演歌師の添田唖蝉坊などは
「あきれて候
口に忠義の講釈しても
酔うて美人の膝枕
不潔な娯楽に日を送る
チョイト不忠なひひジジイ」
と歌っていた
手近なところに女が来ると
だれであれ
とにかく
やってしまう
博文の妻の梅子に和歌を指南していた歌人
下田歌子の場合もそうだった
学校の設立を博文に相談しに来たのがきっかけで
ふたりは不倫関係に陥り情事に耽る
このおかげで下田歌子は順心女学校や実践女子学園を設立し
日本の女子教育の先駆けとなったのだから
やはり先“立つ”ものがないといけないわけである
博文の家に出入りしていた大工の長女喜勢子も妾にし
高級住宅街の麻布の豪邸を与えたことは
「大勲位侯爵伊藤博文の猟色」と題して
権力者スキャンダル追及紙『萬朝報』の報じるところ
世間の非難がこたえてか喜勢子はまもなく病死してしまうが
次には妹のつね子を妾にしてしまう始末
なぜかつね子も19歳で急逝してしまったので
それでは16歳の三女の雪子を妾にしようかとなるが
娘ふたりを失った大工の父の田村半助はさすがにいい顔をしない
そこで博文は半助に莫大な量の金品を与え
60歳を間近にして16歳の雪子の肉体を手に入れることになる
16歳が出たついでだから
17歳の娘も見ておこう
首相を辞職した後のお話だが
実業家で貴族院議員の瀧兵左衛門の名古屋の別荘に滞在した際
17歳の芸者・桃吉を見初め
議会開会中でも頻繁に桃吉と逢瀬を重ねた
成田山への参詣を願う桃吉と名古屋から千葉に向かい
一国の初代総理大臣だった男が
公然と17歳の愛人を伴って
しゃらりしゃらり
桃吉ちゃんもきっと
名古屋の一流の芸者さんではなかっただろう
というのも
伊藤博文には流儀があって
地方に行くと
指名する芸者は一流の芸者でなく
二流や三流の芸者を指名するのが常だったため
これにはちゃんと理由があって
どの土地でも一流の芸者には
地元の有力者がすでに後ろ盾になっている
そういう人間と揉め事を起こさないため
一流ではなく二流や三流の芸者を指名するのさ
と彼自身語っている
花柳界では有力者に寵愛されることで箔が付き
自身の値打ちに重みが増していく
贔屓にしてくれた人が偉ければ偉いほど
女の花道を行くことになる
いっしょに成田山に参詣してやることで
博文は桃吉ちゃんにみごとな花道を敷いてやったことになるし
もちろんそうと知っての同行であっただろう
のちに新橋の料亭「田中屋」の女将となった
新橋芸者の樋田千穂は伊藤博文の愛人だったが
『新橋生活四十年』という著書の中で
伊藤博文の性交っぷりを書いている
「同時に複数の芸者と関係を継続し
1人の芸者と情事を済ませると
もう1人の芸者を呼んで
3人で川の字になって寝た」
とか
「40度の高熱でうなされている時も
両脇に芸者をたずさえていた」
とか
まあ3Pなんていうのはともかく
高熱の時でも3Pの意志を失わない
なんていうのは
なかなか真似のできない
見上げた心意気
博文自身
晩年にこう言っている
「予は寡欲で
貯蓄ということを毛頭存ぜぬ
麗しき家屋に住もうという考えもなければ
巨万の財産を貯えるという望みもなく
ただ公務の余暇に芸妓を相手にするのが
何よりの喜び」
そうして妻にも
こう言い聞かせていたそうな
「予は畳の上では安穏な死に方はできまい
敷居を跨いだ時から
是が永久の別れになると思へ」
こうまで言われると
なんとなく
稀代のスケベジジイの伊藤博文も
なかなかどうして
アッパレにも見えてきてしまうから
アブナイ
アブナイ
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