熟すまま来世紀まで寝かしおく葡萄酒千本そして恋人
梨をむくペティ・ナイフしろし沈黙のちがひたのしく夫(つま) とわれとゐる
女(め)の舟と男(お)の舟の綱ほどけゆくのでなくわれが断ち きりてやる
松平盟子
気ごころの知れた
親しい旧知どうし程度だった大戸純敬と泉水きむ子が
急にいっしょに住むことになるほどの仲になっていったのは
大戸が勤務していた小学校が廃校になるというので
そこの池を攫って魚たちを
他の学校の池に移す作業をきむ子が手伝っていた際
桃色にさまざまな色あいの赤が混じった可愛い緋鯉を見つけて
まぁ、かわいい、飼いたいなぁ、これ!
と彼女が叫んだのを聞いて
大戸がふいに恋に落ちたからだった
二週間後にはふたりは暮らしはじめ
仲を取り持った緋鯉は
居間の大きな水槽に入れられて
ゆらゆらと涼しげに揺れる水草に隠れたり
姿を見せたりして泳ぎまわるのが
ふたりの生活の象徴のようになった
大戸の死んだ祖母はシャンソンが好きだったそうで
特に越路吹雪の日本語シャンソンなど大好きで
大戸の母ははやいうちにどこかの男と駆け落ちし
それにショックを受けて父はどこかの有名な崖から投身自殺をして
果ててしまっていたこともあって
祖母とふたりっきりで育てられた大戸は
ちょっとした時に越路吹雪のCD経由の歌を鼻唄することがあった
日曜日など緋鯉の水槽のガラスや底に敷いた小石を洗ったりする時 に
ふたりのこいはおわったのねぇ*…などと歌ったりする
それなあに?ときむ子が聞くたびに
これはなになに、それはなになに…と丁寧に教えてくれて
ろくに聞いたこともなかった越路吹雪の唄の世界に
きむ子は生まれてはじめて開眼させられていったものだった
ものごとの終わりは急に来るものである
大戸が生徒たちと林間学校で不在の夏のある日
水槽の掃除をしていたきむ子はほんの些細なミスから
汚れを落とそうとして使った弱い洗剤のごく一部を
じゅうぶんに洗い落とさずに
小石を敷きつめ直し
水草を埋め込み
水を満たして
緋鯉をふたたび中に放った
そんな程度の洗剤が残ったからといって
普通ならば問題もなかろうものを
どういうぐあいでだかひどい効果を発揮してしまって
翌日の朝には緋鯉は水面に浮いてしまっていた
気づいてからすぐに別の水に移してみたり
人工呼吸のようなことをしてみたりしたがダメで
緋鯉はもう息を吹き返さなかった
ちょうど大戸の帰宅する日に当たっていて
夕方まだはやいうちに玄関の戸を開けて入って来た大戸は
しばらくは生徒たちのいろいろな土産話をぶちまけるばかりだった が
ふと水槽を見て緋鯉のいないのに気づくと
どうしたの?と質問攻めになり
すぐに緋鯉の不慮の死とその理由を聞き知ると
これもまたどうしたことなのか
もうキミとはお別れだ
前からキミはダメだと思っていたんだ
ふたりの仲を繋いでいたあの鯉を殺してしまった今となっては…
などと言い募って
手近なバッグにあれこれ詰めると家を出て行ってしまった
緋鯉の死についてはいろいろと言われるのはしょうがないと思った が
前からキミとはダメだと思っていたんだ…とはどういうことかと
むしろきむ子のほうがカッとなって
出ていった大戸を引き留めようという気さえ起きなかった
大戸の変わり果てた遺骸の一部が
かつて大戸の父が投身自殺した有名な崖の下から発見されたのは
彼が出奔してから三年あまりも経た頃のことである
大戸とは結婚していたのではなく同棲していただけだったきむ子は
すでに大戸のあと四人目の男と同棲中で
同棲中の男とは違うべつの男との間の子を
どうやら最近妊娠してしまったらしいことを感じていた
まだ検査をしていなかったが
これまで経験したことのない体調の変化と
なによりも体に急にうっすらと丸みがついてきたことを感じ
これはたぶん…と推測し始めていた
大戸の死を伝えに来てくれた刑事が帰った後
まだ同棲中の男も帰宅しない夕暮れちょっと前の庭にむかって立ち
これからどうしようかな、あたし
と漠然と考えながら
ふと
大戸によく聞かされた懐かしい唄を
鼻唄したくなり
即興でずいぶん歌詞をかえてしまいながら
こんなふうに
ふたりの鯉は終わったのね
許してさえくれない貴方
サヨナラと顔も見ないで
去って行った男の心
たのしい夢のような
あの頃も思い出すわ
サン・トワ・マミー
小気味よく目の前が開かれる
サン・トワ・マミー
街に出れば男が誘い
誘われるまゝ手玉にとれる
この私が行きつくとこは
貴方たちの胸なんかじゃないのよ
サン・トワ・マミー
風のように大空を飛びまわるのよ
サン・トワ・マミー
たのしくて目の前がキラキララ
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