SNSで考えや自己表現のたぐいを発信しようとは思っていないの
(そもそもボクには自己がないし自分の考えなるものもない)
情報取りや世間の一端を見るだけのために
FacebookもtwitterもInstagramも維持し
Facebookは気に入らないし
Instagramにもムカついている
トランプに対する不正選挙を批判的に扱ったら警告が来たし
mRNAワクチンの危険を語る記事をシェアしたら警告が来たし
ウクライナのアゾフはナチスなんだけどダメなんじゃないのかい?
疑義を呈する記事をシェアしたら警告も来たし停止措置も来たし
だいたい10年も前や8年も前にアップしたものが
ルールに反するから見えないようにするとか削除するとか
いまだに来続けている
Facebookにいろいろなものをシェアしたりアップしたりす
自分のタイムラインに載せておけば数年後に思い出のかたちで
自分に再提示してきてくれるシステムがあるためで
もともとネット上の誰にもなにも表明しようとしていないし
他人になにか伝わるようになどとはまったく考えていない
近未来から数年後の自分への流動タイムカプセルとしか思っていな
海に流す手紙入りの小瓶のようなものだ
どうこう言ってもtwitterはいちばん規制が少なく
ワクチンの危険もウクライナの嘘っぱちも右から左に流しても
あんまり削除もされないし警告も来たことがない
そういった情報はだいたい匿名の複数のtwitterで流しまく
どこかで引っかかったりしても最初から困らないように仕組んであ
ひとつだけ実名でやっているtwitterがあるが
これははじめからキレイキレイ写真やオモシロ写真を溜める用で
いかなる考えも感情も価値観も言語では表明しないことにしている
しかし選択して載せていく写真や絵を見れば
おのずとこちらの広義の思想はわかるし伝わっていくはずで
自分などというもののない無個性なボクでも
後でみずからふり返って見直したりしてみると
ボクってこんな好みなのかな?とかこんな傾向なのかな?と気づく
あっけらかんと色彩を誇張したキレイキレイ写真をよく載せるが
ボクのほうに写真=写実=真実味という公式がないので
一瞬の面白みさえあればどんなものであってもよい
ある意味では最初から写真や絵というものの価値を認めていないの
しかし世界中にはおなじ好みや趣味の人たちも多いと見えて
ボクのtwitterのフォローはどんどん増えているし
なんだかんだとtwitter上の知りあいも増え続けている
日本という枠や現実世界の枠を完全に外れた知りあいたちがそこに
Facebookのほうは規制もひどいが
そもそも団塊の世代や古い価値観連中がぐだぐだと
煩わしい御託を並べる場となっていて
最初から斜に構えてつき合う必要があったがこれもけっこう面倒く
だんだんと情報取得だけの場になってきていたところへ
なにを偉そうに!
何様のつもりでいやがるんだこのユダヤ野郎!と思って
ますます斜に構えるようになってきていた
何日も開かないこともあるぐらいで
いっそのこともう改名しちゃおうかなと思って見てみたが
改名はできないような感じなので
だんだんと放り出すようになってきていた
ところが
ちょっと前にFacebookの利用法を思いついた
Twitterみたいに
キレイキレイ写真をバカスカぶち込むタイムラインにしてしまえば
Twitterのいまひとつなところは
自分が載せたものが思い出ブーメランされてこないところで
タイムラインに載せて投稿したらシッパナシでさようならなところ
Facebookはこの点ちょっとセンチメンタルにできていて
過去の投稿を思い出として送り返してくる機能がある
そこにちょっと食指が動いたわけよ
そこにちょっとほだされたわけよ
で
キレイキレイ写真をドバドバ投げ込んでいってみるか
ってことになったわけ
数年後の自分にそれがポツポツ戻ってくる
この写真を投げ込んだ時にはあんなことがあって・・・と
ちょっと過去主義者できるわけだ
もうひとつ
いたずらとして面白いことがある
Facebookを使っている連中というのは
けっこう自分の言論をキマジメに扱っていたり
扱ってもらいたかったりする連中が多い
そこにどうでもいいキレイキレイ写真を大量投入していくというの
無意味や無価値のインフレを仕掛けていくわけで
これってけっこう小気味よい
どうせなにを真剣になって書いて投稿したって
しょせんFacebookというのは居酒屋談義の場でしかないし
実際の政治にも社会にもまったく響いていかない愚痴の吐き場でし
そんな場所にならむしろキレイキレイ写真を載せていくほうが
よっぽど気が利いているし正しい行為だと言える
便所の壁にはキレイな風景写真を貼っておくほうがいいに決まって
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