2022年6月26日日曜日

強い酒はお好き?

  

 

 

人間の本質は精神であるという永遠の真理、

人間は彼の有限性を外化〔放棄〕して

純粋な自己意識に没入することによってのみ真実態に達する・・・

G.W.F.ヘーゲル 『歴史哲学』

 

 

 

 

なにも文字を見ず

絵も写真も映像も見ない時間も

好き

 

理想だね

それ

 

けれども

なんでもいいから

ポケットに入るぐらいの本を持ち歩き

信号で止まらされる時でも

サッと出して

読んだりしている

 

スマホは飽きたでしょ?

簡易調べ道具

としては

悪くもないけれど

焦って調べるべきほどの情報って

逆に

スマホのおかげで

そんなに

ないってわかった

 

じっくり調べて

こうかしら

ああかしら

こうでもない

ああでもないと

考えるべきことは

たくさん

あり過ぎるけれど

 

このところ

ヘーゲルを持って出ることが多い

人生に飽き

社会に飽きたら

ヘーゲル

お勧め

 

ヘーゲルといえば「精神」だが

『歴史哲学』では

こんなふうに「精神」の本性を語っている

 

精神の本性は、精神と正反対のものとの対比によって認識される。物質の実体が重力であるのに対して、精神の実体、精神の本質は自由である、と言わなければならない。〔・・・〕
精神のあらゆる属性は自由によってのみ存立するのであり、一切が自由のための手段たるにすぎない。〔・・・〕物質は中心点に向かって駆動するかぎりで重力をもつ。 〔・・・〕それに対して、精神は自分のうちに中心点をもつ。〔・・・〕 物質は自分の実体を自分の外部にもつ。精神は自分-自身の-許にある-存在 [das Bei-sich-selbst-Sein 憑自有]である。これがまさに自由である。けだし、私がもし従属しているとすれば、私は自分でない他者に関係することになり、従って、或る外的なものなしには私は存在しえないことになる所以である。私が私自身の許にあるとき、私は自由である。精神のこの憑自有は、自己意識、すなわち、自分自身についての意識である。意識においては二つのものを区別することができる。第一には、私が知るということ、第二には、私が知るものである。自己意識においてはこれら二つのものが合致する。というのは、精神は自分自身を知るのだからである。精神は自分自身の本性の認定であり、同時に、自分自身に至る活動である。かくして、精神は自分を産出し、自分が即自的に〔自体的に〕それであるところのものへと自分を仕上げる活動である。

 

 

『エンチクロペディ』では

「精神」の展開について

こう言っていたよ

 

 

精神の展開は以下のごとくである。

すなわち、精神は


Ⅰ 自分自身への関係という形態で存在し、

精神自身の内部で理念の観念的な綜体性が精神にとって生成する。

〔・・・〕精神にとって、憑自的、つまり自由であることが

精神の存在である。―主観的精神


Ⅱ 精神自身によって造出さるべき、そして造出されたる一世界

―――ここでは自由が現存する必然性として存在する
としての実在性という形態で存在する。―客觀的精神


 精神の客観性と精神の観念性との即かつ対自的な、

永遠に自己造出的な統一態で存在する。

絶対的な真理の相にある精神―絶対的精神。

 

 

キューッと来るね

ヘーゲルは強い酒だ

なんとかサワーとか酎ハイとか

そんなものばかり流行る

サワー文化

酎ハイ文化の時代でも

酒は

やはり

強くなければ

 

強い酒はお好き?

 




 

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