2023年6月10日土曜日

独身のままに老いたる叔父のために

 

 


寺山修司の未刊歌集

『テーブルの上の荒野』を見直していたら

こんな歌があった

 

独身のままで老いたる叔父のため夜毎テレビの死霊は(きた)

 

いい歌ではない

上の句の「独身のままで老いたる叔父」に

下の句の「夜毎テレビの死霊は来る」は付きすぎていて

驚きがない

 

初期のどの歌にもあった

偽りのものだとしても確かに気持ちのよい感触

ポジティヴな印象と

ネガティブな印象を絡みあわせて作られていたからこその

寺山修司のあの味わいは

もう

後期にはない

あえて言わせてもらえば

どうしようもないほどのつまらなさしか

後期の寺山修司にはない

悲惨の極みだ

 

寺山修司は1983年に47歳の若さで亡くなったが

短歌においては

それ以前にすでに死んでいたのではないかと

思われる

 

とはいえ


独身のままで老いたる叔父のため夜毎テレビの死霊は(きた)

 

という歌は

血縁の叔父たちすべてを失った

いまの私には

リアリティーあるものとして

読まれうる

 

父方にひとり

母方にひとり

「独身のままに老いたる」叔父がいて

父方の叔父は自宅で不審死

母方の叔父は親から受け継いだ大きな家を

まるごとゴミ屋敷にして死んだ

 

そして/しかしながら

 

ふたりの叔父は

私には不幸だったとは思われない

 

彼らは独身者として

じゅうぶんに花開いた

としか

思えない

 

父方の叔父は

上半身裸になって

風呂桶にうつぶせに半身を落して死んでいた

という

気持ちが悪くなったのが収まり

風呂で水浴びをしようとしたところで

ふたたび

不意の発作に見舞われたかのようだった

 

しかし

人間の最期は

かならず

なんらかの不意の打撃によるものである

改めて

それを大げさに驚くことがあろうか

 

母方の叔父は

他人たちとの一切の関わりを断っていたので

晩年の生きようは謎だったが

死後に

彼のゴミ屋敷の中に

私は実地に踏み込んでみた

 

ホラー映画のお化け屋敷をはるかに上まわる

壮絶というより

奇想天外な光景がどの部屋にも広がっていたが

とうの昔に電灯が切れた部屋で

何年も敷きっぱなしだったはずの寝床の薄布団に寝ながら

畳の上には枯葉や古紙や土が積もった環境の中で

夕暮れから朝までの闇を

どのような意識で生きることができたのか

私の想像力では

いまひとつ

完全には把握しづらかった

 

スマホのカメラで撮ってきた室内の写真には

ところどころにオーブが写っていたので

あきらかに霊体の棲む空間となっていたはずだが

まったく掃除もせず

あちこちにゴミも山積みになっていて

夜に必要な明かりもほとんどなかった大きな家の中で

叔父はなにを見ていたのか

あるいは

見ないようにしていたのか

そのあたりは

今も私の考究課題となっている

 

ところで

先の寺山修司の歌をつまらないと思った私は

このように改作をした

 

独身のままに老いたる叔父のために夜毎テレビはテレビを演ず

 

私としては

こちらのほうがはるかにいい

と思う

戦後短歌なるものの寂しい詩学への

これは

Farewellでもある






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