2023年6月22日木曜日

凝乳と蜂蜜、そして14


 

 

その日が来れば

主は口笛を吹いて

遠くエジプトのもろもろの川から蠅を

アッシリアの地から蜂を呼ばれる

イザヤ書7-18*

 

 


 

 

マタイによる福音書の冒頭は

なにが言いたいのだか

つまらないし

うんざりさせられる記述の代表格だろう

 

キリストのことを知ろうとしたり

キリストの言葉に触れたいと思ったりして

期待してマタイから読みはじめると

冒頭から意気を挫かれる

 

キリスト教の高校に通ったので

聖書の講義も週に一回あり

自分でも学ぼうと思って読みはじめたら

新約聖書の最初のマタイで参った

 

たかが1ページちょっととはいえ

延々とアブラハムからイエスに至る系譜が

書き連ねられていく

18節に至ってようやくお話が始まる

 

その後は例の通りの不思議物語で

キリスト教徒でなくても

ごく普通の好奇心を持つ青少年には

けっこう楽しい物語となる

 

戸外でちょっとした隙間時間に

文庫本程度の大きさの本を見ることにしているが

フランス語訳の新約聖書を持ち出すこともある

本当は旧約聖書が好きだが大部なので諦める

 

いろいろな読み方をしてきて内容はほぼわかっているし

ジュリアン・ソレルほどでなくとも覚えてもいるので

ひさしぶりに最初のマタイから読みはじめたら

アブラハムからイエスに至る例の系譜羅列だった

 

面白い物語を血眼に求める青年時代と違い

一見つまらない系譜の羅列もゆっくり読んでいけるのは

馬齢を重ねた結果の稀な獲得物か

ところがこの系譜の羅列の意外な面白さに気づいた

 

青年時代と違って旧約聖書にも親しんだ末の目には

アブラハムからの系図の記述というのは

手際よくまとめをして見せてくれるように見え

なんと親切なことだろうとヘンな感心をする

 

イサクもヤコブもボアズもルツも

ダヴィデもソロモンもその他もろもろも

ユダヤ教徒でもないわたしの胸のうちで英雄として

あれこれの苦難やシーンを演じ続けている

 

ハリー・ポッターとか鬼滅のなんとかとか

マリオとかドラゴン・ボールとか

あるいはナルニアとかドリトル先生とか

そんなレベルの及びもつかない人類ヒーローたちだ

 

それらを次々と脳裏に心に蘇らせる

マタイによる福音書の冒頭のあの系譜羅列は

聖書ぐらいしか楽に聴かせるもののない時代には

人々の心を興奮させる力を持った言葉の連鎖だったろう

 

そんなことを思いながら冒頭を読んでみると

14という数字が意味ありげに二度くり返されるのに気づく

アブラハムからバビロン捕囚までが14代

バビロン捕囚からキリストまでが14代

 

これは記述してみたら偶々そうなったというような

そんな偶然の産物ではなくて

預言的な意味あいさえある数字だろうと

愚かな若さの捕囚から解放された今は気づくことができる

 

同居する前に懐妊しているマリアを離縁しようと

決意したヨセフに現われた主の御使いは

マリアが生む男の子をイエスと名付けよと告げるが

それはヨシュアのギリシア語化で「主は救う」という意味

 

このシーンの後でマタイはイザヤ書の預言を引用し

「見よ、おとめが身籠もって男の子を産む。

その名はインマヌエルと呼ばれる」と記して

「神はわたしたちとともにおられる」*という意味だと言う

 

イエスとインマヌエルというふたつの名を持つ男の子の

誕生だったかとふり返り直してイザヤ書7-1415に戻ると

「その子は、悪を退け善を選ぶことを学ぶまで

凝乳と蜂蜜を食べるであろう」*とある

 

凝乳とは牛や山羊や水牛の乳に酸やキモシンなどの

酵素を作用させて作った凝固物でチーズ以前のものであり

ここから乳清の一部を除去して熟成させればナチュラルチーズにな

熟成させないものはフレッシュチーズになる

 

チーズ以前の凝乳と蜂蜜とを食べて

「悪を退け善を選ぶことを学ぶ」過ごし方は今いよいよ困難だが

「悪を退け善を選ぶことを学ぶ」ためには

じつは凝乳と蜂蜜を食べることが大きく作用するのだと今は気づく

 

 

 

 

*聖書よりの日本語訳は、フランシスコ会聖書研究所の『原文校訂による口語訳聖書』(2011)による。

 

 

 



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