2023年6月16日金曜日

中今


 

神道における「なかいま(中今)」は

こころ惹かれる言葉だが

簡単な説明を見たりすると

世間一般に言う「今」や「現在」の意味が当てられているだけで

すこしがっかりしてしまう

 

「なかいま(中今)」は

流れるものや去りゆくものとしての時間概念の

否定であるべきだろう

いつも「今」であり

流れ去りもしなければ

流れ来たりもしないものとしての「今」であって

この「今」は

かつて肉体に生を受けた時の「今」がそのままあり続けているのであり

肉体と重なって意識を開く以前の「今」でもあり続けている

 

小林秀雄が『無常といふ事』で

「上手に思い出す事は非常に難しい。だが、それが、過去から未来に向かつて飴のように延びた時間といふ蒼ざめた思想(僕にはそれは現代に於ける最大の妄想と思はれるが)から逃れる唯一の本当に有効なやり方のように思へる」

やや

わかりづらく

書いた時

おそらく彼は

「過去」や「未来」という観念とは縁のない「中今」に

触れていた

 

人間の意識はそのまま生であり

他の生を人間は認識もできなければ

生きることもできないが

意識はそのまま「中今」であって

意識には「過去」も「未来」もない

それらがあるかのように思うのは

それらを存在するものと思い込んで

幻影の中で「過去」や「未来」という観念に位置を与えているからである

 

「過去」や「未来」という時

それらは「今」とははっきりと隔絶されたものでなければならないが

たとえば私の「今」と

私が三歳の時の「今」とは隔絶されてはいない

そのふたつの「今」は別物ではなく

それゆえに私は「三歳の時の『今』」と呼ぶことができる

そのふたつの「今」は「繋がっている」と表現することさえ間違っている

まったく同じものであり

まったく同じ部屋であって

その部屋内での意識灯の移動はあった…と

かろうじて言える程度である

 

しかし

私の外部の出来事

たとえば大化の改新と呼ばれる事件は

私にとって「過去」としか呼べないではないか

と言われるかもしれない

そうではなく

大化の改新は「過去」ではなく「話」であり「物語」である

「話」ないし「物語」と「過去」というものとの間の懸隔は大きく

ここには思考における

容易には飛び越え難い不可能な溝が存在する

たいていの考察が無意味な時間つぶしにしかならないのは

このためである

 

とりあえずは

「今」というものを

非言語的に

非観念的に

掴み直そうとすることからはじめ

一般に「過去」や「未来」と安易に呼ばれて済まされてしまうものが

ほとんど

「今」でしかない

と触覚し直してみないといけない

これが

大きな力を受け取りうる認識に通じるのがわかってくると

「中今」という言葉のふさわしさや

正確さが

おのずと感じとれてくるだろう






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