じぶんより
ずいぶん若いひとたちを見ていると
いろいろと友だちがいて
楽しそうだなあ
世の中というものが
じぶんに反応を返してくれるものに
感じられているようで
張りあいがあるだろうなあ
と思われます
そうでない若いひともいるでしょうが
それでも
この先の人生は
うんざりするほど
長く感じられているでしょうから
そのうち新しい友だちも
いろいろと出てくるだろう
と思っているにちがいありません
わたしの場合
二十年も前の時点で
友だちと思っていたひとのうち
17人ぐらいはすでに死んでしまっていました
自殺者は13人ぐらいでした
詩歌や哲学や宗教や
芸術などに関心の深い友だちが多かったので
世の中のいろいろな醜いことや
不公平なことや
冷酷さや無関心に
ことのほか感じやすいひとは
ともすると
サッとこの世を離れる気持ちになってしまうのです
さらに年齢をかさねたこの頃は
もうほとんどのかつての友だちの消息が
つかめなくなっています
こちらが変わらぬ気持ちでいるつもりでも
おたがいの間に生じる生活の違いや
むこうの不如意などのために
あいかわらずの友だちとしては
つきあいづらくなったりもするのでしょう
年賀状を出しても返事が来なくなり
そうすると電話してみるのも
なんとなくはばかられ
数年そんなことが続いていくうち
フェイドアウトというか
縁は切れていってしまう感じです
フェイドアウトしていった
消息のあいまいなひと以外に
あちこちからの噂や推測などから
たぶん死んでしまったのではないかと思えるひとは
あたまのなかでの最近の概算では
もう20何人かに達します
若いひとたちのようすを見ながら
ばくぜんと友だちというものを思ったりするとき
ちょっと痛切な気持ちになるのは
こんな概算をするときです
もう死んでしまった友だちや
消息の不明になってしまった友だちには
世界で起こる戦争や
ときどき起こるパレスチナの虐殺などの際に
じぶんのことのように激していた人たちもいました
政治の腐敗について嘆き続けるひとたちもいました
そうした出来事の起こっているときには
わたしとてこころ穏やかではなかったのですが
「こんなことが人類で許されていていいのか!」と
わたしに掴み掛からんばかりに問うてきた友だちが
何人もいたものなのです
彼らがまだ生きていて
21世紀ももう20年代になっている現在を見たら
どんなに激しく嘆くことだろうかと
容易に想像がつきます
どこかでいま生きていながら沈黙してしまったひとたちも
ひどいこころの苦しみを抱えながら
ニュースに触れまいと努めているのではないか
などと想像します
彼らよりも
じつは
ひどい経験を若いときにしたわたしは
深いこころの傷が
逆に
この世で起こることへの強い楯となったらしくて
どんな時代にも
これに救われるようなぐあいになりました
この世には
醜く冷酷で無関心なさまざまなレベルの悪を体現している
極悪人たちしか存在しない
極悪人たちしか社会のシステムのなかでは生き延びられない
とわたしは日常的に悟っていますが
ここまでわたしを悟らせた経験の数々がなければ
この酷い21世紀など
わたしとて
生き延びてはいけなかったでしょう
わたしも極悪人です
今週も
先週も
魚を食べたり
肉を食べたりしませんでしたか?
どうして
魚はあたりまえのように殺されて
わたしに食べられるしくみになっているのですか?
どうして
豚や鶏や牛は
あたりまえのように殺されて
わたしに食べられるしくみが許されているのですか?
どうして
どんどん爆撃がされて
次々ひとが殺されていく場所に
わたしは大急ぎで救いに行かないのですか?
どうして
住む家を失うほどまでになって
高速道路の下や
川ぞいに
段ボールで家のようなものを拵えて
ろくにシャワーも浴びずに
黒っぽくなった肌で日々を暮らしているひとたちに
なんとか精一杯のことをして
わたしは助けてやろうとしないのですか?
だから
わたし自身も
極悪人だというのです
あるいは
極悪人という
いまの時代の「ふつうのひと」の皮を被って
けっして同調もしなければ
理解も共感もせず
どこまでも
いつまでも
人類を観察調査している
根底からの
異邦人
異星人
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