2017年11月11日土曜日

『せせらぎ』(譚詩1991年作)  2


 (承前)

妻が亡くなった後も、わたくしはたびたび、このうわごとのことを思い出したのですが、そうするうち、妻のこうしたうわごとは、かならずしも、死が近くなってから始まったわけではなかった、と確信するようになりました。
元気だった頃の妻が、たとえば明け方などに、やはり、よく似たうわごとを言うのを、何度か、ぼんやりと聞いた記憶があることに気づいたのです。
もっとも印象のつよい記憶は、結婚してまだ間もない頃の、ある明け方のものです。
その時、ひとつの夢から別の夢への谷を飛び越え損ねたように、ふいに目覚めたわたくしは、しばらくまぶたをあわせずに、ほのかに明るみはじめた寝室の、次第に魔力を失っていくような闇の中で、かたわらに寝ている妻の顔のあたりを見つめていました。
わたくしがこの時、どれほどの幸せにあふれて、かたわらのうす闇を、うす闇の中にぼんやり認められる鼻や頬の稜線を、眺めたことか。
愛する人とともにいて、平穏さと静寂の中、その人の眠っているさまをじっと眺めているーーこれ以上に深く心の底に染み入ってくるような喜びの時が、はたして、どれほどあるものでしょう。
ある人にたいして、一点の曇りもない愛を抱くことができるのは、ほんとうに幸せなことです。自他の気まぐれな欲望や不安にたえず揺り動かされるわたくしたちの生、思うにまかせぬこの世界の生の中では、これは、ほとんど恩寵といってもいいほどのことでしょう。僥倖なのです。
自分でも信じられないほどの純粋な愛情を心に感じて、わたくしは、感謝の気持ちに満たされていました。愛というものは、自分の意思で持つことができるものでなどなく、自然にやってくるものなのだ、わたくしにできるのは、黙ってそれを受け、心の深みに染み入らせることだけだそれまで自分でも知らなかっこうした感受性の発現に驚きながら、いまやはっきりと、うす紫のほの明かりの中に浮き出てこようとしている妻の顔の端正な稜線を、わたくしだけに許された奇跡ででもあるかのように、しかし同時に、ほんとうのわたくしにようやく出会うことのできたかのような大きな安らぎとともに、眺め続けていたのでした。
と、ちょうどその時、妻のふたつの唇のあいだから、あの言葉が洩れ出たのです。あたかも、花のつぼみがひとつ開くや、そこからまったく別の花が、おのれの美を培い、運命を決定した地方のひかりと影とを匂わせながら、たちまちに咲き出でるようなぐあいに。
  「… せせらぎの音の涼しいこと。きょうも、この小川に沿って、しばらく歩いて参りましょう。戻ってきたら、ゼンマイを炊き込んで、雑ぜご飯にしましょうか…」
あゝ、いじらしい、なんと平和な夢。山あいの村のはずれの、つましい静かな家にでも、いま、彼女の心は落ち着いているのだろうか。その家の縁側か、庭先にでもふたり出て、すぐ近くを流れる小川の音を聞きながら、夕暮れへと重みを増していく庭の気の中に佇んでいるのだろうか。
わたくしがこのように思って、微笑まずにいられなかったのも、それが、あの若く新鮮な、恵まれた人生の時期の一朝であったことを思えば、無理からぬことと言えましょう。
結婚したばかりの男なら、純粋で誠実な心を持っているかぎり誰であれ、眠っている自分の妻の、あたかも永遠の中に浮かんでいるかのような顔を眺めながら必ず思うであろうことを、わたくしは続けて考えたものです。いま彼女の耳に届いている、夢の中のせせらぎの音のように、涼しく、涼しく、いつまでもこの女を愛していこう。他の誰かれにもできるようなかたちでではなく、わたくしだけの愛というものを紡ぎ出していこう。わたくしは、このわたくしを、この女への愛そのものとしていこう、……と。

(第一章 続く)



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