2017年11月20日月曜日

『せせらぎ』(譚詩1991年作)  9


  (承前)

     

  夏の午後の田舎道の、暑い、動きのない空気の中をずっと歩いてきて、ようやく辿り着いたところは、まるで別の世界に入ったような涼しい、風の通りのよい林の傍らの家でした。
 古い家であることは一目見てすぐにわかりましたが、よく手入れされているせいか、清潔な好ましい印象を受けました。
「暑かったでしょう。きょうは特に陽射しが強いようですし… お風呂をたてておきましたけれど、いかがですか、先に汗を流したほうがさっぱりするでしょう」
 言いながら、荷物を手伝って奥の部屋へ運んでいく彩さんの、白地に藍の百合の花の散ったきものに薄紫の帯をしめた姿が、心に抱いていたこの人の様子にふさわしく、まるでなにか、真っ白い布に一滴垂れ落ちた染料が、目の前で今、みるみる染み広がっていくのを見るようなぐあいに、遠い昔に予言されていたある小さなことがかたちを取りつつある、という気持ちになりました。
 勧められるままに、はじめに汗を流し、すっきりした躰を、用意してもらった浴衣で包んでから、あらためて彩さんとお祖母さんに挨拶をしました。
 お祖母さんというのは小さな人で、背が丸く、わずかにしか聞こえないという耳で一生懸命に人の話すのを聞き取ろうとする時に、たえず、首を軽く上下させる癖がありました。いかにも静かな人で、じっと座って縫い物をしていたりすることが多いようでしたが、足腰もしっかりしていて、耳の他はいたって丈夫そうでした。
 この人のこういう姿が、友のあの近未来都市のイメージの底のどこかで、不思議に緊密に結びついているのだろうか…  そんなことが思われました。
 さきほど彩さんが荷物を運んでくれた奥の部屋が、これからずっと夏のあいだ、わたくしの寝起きする部屋になるということでした。
 「じつは、こんなことをお話するのもどうかとは思うのですけれど、以前この部屋は、亡くなった姉の部屋だったんです。病気が重くなってからは、もうほとんど姉はここから出ませんでした。出られなかったというより、出たくなかったらしいんですの。ずいぶん、気に入っていたようですわ」
 わたくしがバッグから出した衣類を、ひとつずつ丁寧にハンガーに掛けて鴨居に吊りながら、彩さんがこんなことを言う気になったというのも、おそらく、庭に面して大きく開け放たれたこの部屋が、明るい緑の光にいっぱいに溢れていて、暗い出来事の思い出をけっして暗いままにしてはおかないと感じたからに違いありません。亡くなったお姉さんの気持ちも確かによくわかるような、感じのよい、とてもいい部屋でした。
 不幸があった後で、あるいは入れ替えたのかもしれませんが、畳もきれいで、陽光の反映に目を細めてむこうを見ると、この数十年来、わたくしのゆっくり座ったことのないような濡れ縁が、鈍色に乾いて庭に出ています。庭には丈の低い雑草が一面に広がっていて、向こうの垣根の近くには、たぶんコスモスでしょう、あの涼しげな細かい葉をたくさん付けて、何本も伸びています。濡れ縁に近いほうには、月見草の黄色い蕾が揺れていました。
 「こんな部屋なら、たしかに出たくないでしょう。部屋というより、自然の明るさの中にいるようですものね。それで、最期は、…病院に?」
 「いいえ。ここででしたの。ここで亡くなりましたの」
 幸福な死 … そういう思いが浮かびました。口に出して言っても、悪くはなかったのでしょう。しかし、この部屋と庭のさまの自然さが、こんな大仰な言葉をすぐにも滑稽なものに見せてしまうような気がして、わたくしは口を噤んだのでした。

  (第四章 続く)



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