2017年11月8日水曜日

『シルヴィ、から』 63

 複声レチタティーヴォの連続のみから成るカンタータ叙事詩
 [1982年作]   

  (第二十五声) 6

  (承前)

玄関まで導いてくると、看護師はわたしをそこに置いて、廊下を少し戻り、ある部屋に入っていった。外に踏み出さずに、玄関の脇に凭れて、看護師が入って行った部屋のほうを見ながら、わたしは待った。しばらくすると、彼女は、見た目にやわらかそうな白い布に包まれたものを抱いて、部屋から出てきた。
わたしのところへ来ると、
  「ほうら。すっかり元気になったわ。今眠っているけれど」
と、これまでになく打ち解けた言葉づかいで言って、こぼれるような笑顔を浮かべながら、それをわたしに示した。
シルヴィだった。
確かにそれは嬰児で、まさしく嬰児らしい顔をしてもいたが、しかし、同時にそこには、はっきりと、わたしの知っているあのシルヴィの顔立ちが見てとれた。
 「これが赤ちゃんだと言えますか?小さいけれども、これは、わたしの目にはまさしく成長したシルヴィそのものです。娘ざかりのシルヴィそのものですよ」
そう言いながら、わたしはこの顔に眺め入った。
看護師もまた、首を深く傾けて同じ対象に見入りながら、
 「これは赤ちゃんの顔ですわ。あなたはあまり赤ちゃんをご存じないようね」
と言って、一時、その眼差しでわたしの瞳を抉った。わたしは外のほうへゆっくりと向き直り、入口近くの柱に手を掛けながら、
 「いや、あなたがシルヴィを知らないだけのことですよ」
と言って、
 「さてと、外へ出てみようかな」
と逃れた。
看護師と話している間に、いつの間にか、かなり外の光にも目が慣れてきていたようで、玄関から踏み出した時には、それほど眩しくも感じなかったが、それでも少しの間は、軽く目を細めていなければならなかった。だが、それは、光そのものの眩しさのためばかりでなく、風景のせいもあったに違いない。玄関から出たわたしの目に飛び込んできたものは、まず、無数の白い墓標であり、その向こうに広がる若い明るい緑の草原であり、さらには、遠く地平線のあたりに起伏を作っている深い森であり、また、飽和を超えて大空のどこかから雫となって滴り落ちるかと危ぶまれるほどに深く濃い、空の青の輝きだった。
墓標の群れの白さを、わたしの目はおそらく光と取り違えて、感覚に眩しさを思わせたのに違いなかった。目や感覚がこの風景に馴染んでくるに従って、わたしは、はじめの印象や、さっき病室の窓から見た印象でつくり上げていた今日という日についての思い込みを、正さざるを得なくなった。
外の様子に馴染んでみると、眩しさというものがじつは全くない、と感じられた。青く輝いていると思われた空は、実際には、青というよりは紫から濃紺に近い色で、しかも、到るところで色調に斑が見られた。輝きは、確かにそこにはあったが、めくるめくほどのものではなく、むしろ、奥行きのある幾層も深く入ったところからの重い輝きで、感覚的な眩しさとは関わりのないもののようだった。病室で窓から眺めた時には、さぞ鮮やかな太陽が天心を領していることだろうと思われたのだが、太陽の姿はどこにも見られなかった。地上の光を支配する空がこういう状態である以上、大きな白い墓地も、緑原も、森も、真夏の日中のようにつややかに息づいて見えるということはなかったが、しかし、今、それらはわたしの目に、夜陰に自らの光で浮かび上がる幽霊のような生々しさで、各自のかたちや色を生きているように見えた。墓は漆喰さながらに白く、草原は緑、森は黒、あるいは深い緑色を帯びて横たわっていた。けっして夜ではなかった。空には雲ひとつなかった。全体の印象としては、明るい日中よりやや明度の落ちた大気が風景の中を漂っていると感じられる程度で、強いてこの時間に呼び名を付けるとすれば、黎明とか朝まだきという言葉が、感覚を宥めるには最もよい言葉だっただろう。だが、東の空が明らんでいるわけでもなく、太陽がどこかに浮いているわけでもないので、その呼び方はあくまで一時のごまかしに過ぎないのだった。空も大地も明るく、暗く、輝いており、浮き出てもおり、吸い込まれるような静かな闇がすべてを領しており、また、光があらゆるところに満ち満ちてもいた。
 「今日は本当にいい天気です」
 と看護師が言ったので、わたしは、
 「まだ太陽が出ていないようですね。夜明け前ですか?それにしては明るいが……」
 と言ってみた。看護師は頷きもせず、なんらかの心持ちを顔に表わすこともせずに、
 「長い間、太陽は出ていません」
 と、さっきの打ち解けた様子とは、また、がらりと変わって、いくらか厳かな調子で語った。
彼女はわたしよりも玄関に近いところにシルヴィを抱いて立っていたが、今、その彼女の顔を見た折りに、わたしの目は、その彼女の後ろの玄関をも捉えた。看護師の言うところを信じれば、もう数日も前のことになるのだが、嵐の中を、シルヴィを抱えてこの医院に駆け込んだ時のことを思い出した。そして、あの時わたしが入った入口は、今、ここにある入口とは違っていたのに気づいた。あの時は、墓地もなにも目に入らなかったし、もっと簡単な構えだった。そう看護師に話すと、
 「ああ、それは裏口のことです。裏口からあなたはお入りになったんですわ」
 と教えてくれた。
それを聞くと、なにか、すべての準備が終わったようにわたしは感じた。なんのための準備かわからないが、とにかく、もういいのだ、もう大丈夫だ、と思った。
 粉を塗ったような大きな白い石板の墓標や、白い泥で練り上げたばかりのような四角い柱の墓標、十字架、ところどころ崩れているもの、まれに点在する黒っぽい墓石、墓の間に顔を出している鮮やかな若草などに、ひとつひとつ目を移し、わたしの数歩先から始まって、向こうへ、あるいは右のほうへ、左のほうへと大きく広がっているこの墓地全体へと次第に視野を広げながら、
 「その女の人は、どこにいるんですか?」
 と聞いてみた。すぐに背後から、
 「あそこですよ」
という男の声が響いたので、ふり返ってみると、いつ出てきたのか、そこには医師の姿があった。
わたしは医師に目礼をし、彼が指しているほうに目を向けた。
今までわたしが向いていた方向よりいくらか東よりのほう、というよりは、ここでの方位をよく知らないわたしが東と感じた方角寄りのところに、すでに墓地の中に深く踏み入っている、墓標のものとは印象の異なった白の軽い衣服を身につけた女性が見えた。その女性はわたしたちには背を向けており、しかも、ゆっくりとではあるが、どんどんと墓地の中を向こうへ深く歩み入ってゆくところだった。
わたしがせっかく外へ出てきたのに、どうして行ってしまうのだろうと思ったが、きっと、長いこと待たされていたので気晴らしに散策を始めたのだろうと考え直した。声を出して呼ぶのではなく、その人のところまで行き着いて、連れ帰ろうと思い、わたしは白い墓地の中へ踏み込んだ。が、すぐ立ち止って、確認をするように、看護師と医師のほうをふり向いた。看護師はあいかわらずシルヴィを抱きかかえていて、
 「そうです。あの人ですよ」
と言った。医師が顔をほころばして頷いていた。ふたりとも、わたしがあの女性のところまで到り着くことを望んでいると見えた。
向き直ってわたしは歩き出した。靴が踏み締める土は、やわらかかったり固かったりしたが、滑ることはなく、足を取られることもなかった。
はじめのうちは、墓石にぶつかったり、囲われた墓の中に踏み込んだりしないように注意しながら、ゆっくりと歩いたが、慣れてくると、その女性の背を見続けながら、墓の間を縫って歩いて行けるようになった。
わたしが歩く分だけ、その女性も遠ざかり、間隔はいっこうに縮まらなかったために、わたしは速さを少しずつ増していった。だが、それに従って、その女性のほうも、わたしと同じだけ速さを増して、歩き進んでいった。
じれったくなって、わたしはとうとう走り出した。すると、その女性も、彼女も、わたしと同じように、ずっとその瞬間を待ちわびていたかのように、ふいに走り出した。彼女の白い服に波が立ち、翻り、長い金髪が手まねきをするように宙を踊った。
このさまを見て、これは本当だろうか、また、夢かなにかではないのかと思ったが、そういう思いも消え去らぬうちに、あっと言う間さえなく、まるでどこかの空気の裂け目に呑まれでもしたかのように、突然、彼女の姿は消え失せた。……

 (第二十五声 続く)


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