2017年11月7日火曜日

『シルヴィ、から』 62

 複声レチタティーヴォの連続のみから成るカンタータ叙事詩
 [1982年作]   

  (第二十五声) 5

  (承前)

 「気がつきましたか?」
 その声のほうを向くと、看護師が窓の傍らに立って、一方のカーテンに手を掛けながら、顔だけこちらに向けているのが見えた。
 看護師はすぐに向き直ってカーテンを束ねて結わえると、わたしのほうへやってきた。もう一方のカーテンもすでに結わえられており、広い窓は全開されていた。長い間は見ていられないほど眩しい空が、その向こうに広がっていた。その空の輝きに満たされているこの部屋は、どうやら病室で、わたしはといえば、ベッドに寝かされているらしかった。
 「ひさしぶりの上天気ですわ。一昨日の夜、長く続いていたあの雨が止んで、今日、ようやく雲がすっかり消えました。あなたは三日間も眠っていらしたんです。でも、いい日にお目覚めになりましたね」
 看護師がそう言って軽く笑うのを聞いて、もう、今ではいちいち思い出すこともできないが、これまで起こっていたことはすべて夢だったのだろうか、とわたしは考えた。
 「娘は、あの娘は、ーーいや、シルヴィだ、シルヴィはどうしました?助かりましたか?それとも、あれも夢ですか?」
 「夢?きっと、なにか夢を見ていらしたんですね。長い間眠ってらしたんですものね。あの赤ちゃんはシルヴィっていうんですか?あの子なら、大丈夫、助かりましたよ。元気になりました。心配なさらなくて大丈夫です」
 それを聞いて、ひと先ず、わたしはホッとした。が、同時に、そうなると、一体どこまでが現実で、どこまでが夢だったのだろう、と不安になった。ひどく心許無い気がした。その上、今の看護師の言った「赤ちゃん」という言葉が、懐中に投じておいた鋭い針のように気にかかった。
 「シルヴィは赤ちゃんじゃありませんよ。わたしと同年代の娘です。いや、女性と言うべきかな。とにかく、ちゃんと成長した体を持った女性だったんです。ところが、ここに連れてくる間に、どうしてかわからないのですけれど、どんどん縮んでしまったんです」
 やや慌てた口調で一気にそう言うと、他になにをどう言えばよいか考えるために、いったん口を閉ざして、看護師を見つめた。
 看護師は軽く驚きを表わすと、微笑みながら、ベッドの端に軽く凭れて、
 「どういう経緯があったのかわかりませんが、現在のところは、あれは、ーー失礼、あの人は、確かに赤ちゃんですわ。……きっと、長いこと雨の中を歩いていらしたんで、頭の中で幻想を作り出してしまったんでしょう。あれだけ熱があったんですもの。……ただ、あの雨の中で、赤ちゃんを裸のまま連れてらしたのは、今思えば、ちょっと妙なことでしたわね」
 「そうです。それですよ」
 とわたしは少し強い声で言った。
 「裸のまま倒れていたんです。ポプラの並木の道の傍らに。裸でですよ。見つけた時には、もう青ざめていて、死んでしまっているのかと思ったほどでした……」
 看護師は微笑み続けていた。わたしの顔のあちらこちらに、おそらく、目と口に代わる代わる瞳を移しながら、ゆっくりとくり返し頷いた。
その瞳を見つめながら、目の美しい人だ、とわたしは思った。目ばかりでなく、顔立ちも、白衣の上から見てとれる体の線も美しい人だ、ということに気がついた。首のあたりで切り揃えた彼女の髪に、殊に、わたしはしばらく注意を惹かれていたが、その髪は、次第にわたしのところへと近づいて来た。そして、それが項を滑って揺れたと見えた時には、彼女の額はわたしの額に上から合わせられていた。
すぐ目の前に降りて来ている耳に向かって、小声で、
 「妙な体温の測り方ですね」
と呟くと、彼女は掌をわたしの胸元に置いて、なにかの合図でもするように、指先で鎖骨をやさしく叩いた。やがて、その指先の数本が喉へゆっくりと滑り、顎まで辿りついて止まった。なにかに逡巡でもするように、指たちはしばらくそこに留まって息づいていたが、やがて、それらはわたしを離れ、彼女も体を起こした。
 「……もう大丈夫です。すっかり熱も引きました。脈も正常です。肺のほうは異常はないようです。食べることもできるはずですから、今、食事を運んできましょう」
 そう言って、何事もなかったかのように、看護師はベッドから離れようとした。
 「ちょっと、待って」
 わたしは彼女を引き留めた。が、言おうとしたことの内容が親密なものに過ぎるような気がして、口ごもった。
 「いや、べつにいいんです。ちょっと、……」
 と言うと、
 「ちょっと?なんですか?」
 と彼女はわたしの言葉を追った。思いのほか、彼女が真剣にこちらを見つめているので、しかたなく、
 「いや、本当になんでもないんです。ただ、どうして、さっき、あんな冗談をあなたがしたのか、と思って、……ほら、あの、額で体温を測るような……」
 すると彼女は、
 「冗談ではなかったんです」
 と流れるように言った。
 「どこかであなたにお会いしたような気がしたものですから。それに、あなたと、……とにかく、わたし、……そんな、冗談などではなかったんです。でも、奥様がいらっしゃる以上は……」
 「奥様って、……誰の奥さんです?どういうことです?」
 わたしは驚いて訊ねた。結婚していないわたしにとっては、この言葉はどういう意味も持ち得ないはずだったが、この時は、自分が忘れていた自分自身の過去を他人に抉り出されでもしたように感じた
 「あ、そうでしたわね。まだお話していませんでしたわね。女の方がお待ちになっていらっしゃるんです。今、外にいらっしゃいますわ。病室へどうぞ、って何度もお勧めしたのですけれど、外で会いたいからとおっしゃって、どうしても中へはお入りになりませんの。あの方、奥様だとお見受けしたのですけれど、違いますかしら?
 「いや、わたしは結婚していないんです。妻なんかいませんよ。他の患者さんか誰かの……」
 「でも、今、この病院にいらっしゃる患者さんはあなただけです。他には、院長とわたしと、それから、あの赤ちゃんがいるだけですから、間違いありませんわ」
 看護師は、それでは、その女性はわたしの恋人ではないか、と、やや悪戯っぽい目で聞いてきたが、わたしは、それも即座に否定した。妻も恋人も友人も、わたしにはいなかった。男女を問わず、昔はたくさんの知己があったが、長い間の不通が、そのすべてをわたしから奪い去ってしまっていた。旅に出る頃、わたしは自分の感情や考えを表に表わすことの無意義を嫌って、ものを言う機会が少しでも失われるのを望んでいたものだったが、今から思うと、わたしの望みは、旅の道程でいつの間にか実現されていたのだった。
 やがて看護師は、朝食を運んでくると、わたしをベッドからやや離れたところにある小さなテーブルに着かせた。彼女が朝食を取りに行っている間に、わたしはベッドを下り、寝巻を脱いで、きれいに洗濯され、よく乾かされてあったわたしの衣服を身につけておいた。はじめのうち、少しふらついたが、体はすでに十分に回復しているのがわかった。
 食事は、病み上がりの人間にとって無理のないごくあっさりとしたもので、それでいて、甦りつつある食欲のやわらかな好みを適度に満たし得るものでもあった。病院臭さは微塵もなく、品のよい料理屋の特別の軽食のようだった。盛られたもののうちのどれもこれも、皆、口溶けのよい穏やかな味わいを舌にもたらした。
 「後で、また別のものを食べなければいけません。とにかく、今は、食べることです。もっとも、この食事だけでもかなりの栄養を取ることができるはずです」
 看護師は事務的な口調で言った。
 わたしは彼女の言葉に頷いただけで、黙って食べ続けた。彼女もそれっきり口をつぐみ、後はじっと、わたしが食べるのを眺めているようだった。
 ものを食べることは性に深く関わると感じられるので、わたしはつねに、なにか食べているところを人に見られることにかなりの恥ずかしさと気まずさを覚える性質だったが、この時は、そういう負の傾きが心には現われなかった。わたしは無心に近い状態でただただ口を動かし、芋虫の体のように動く消化器官の調子に総身を合わせて食物を溶かしていった。外で待っているという女性のことも、この時はすっかり忘れ去っていた。
 食事が終わって、しばらく、ベッドの上に転がって目を瞑りながら休息していると、食器を片づけに行っていた看護師が戻ってきて、
 「さあ、玄関まで参りましょう。まだ外にいらっしゃるんですから
 と言った。
 この言葉で、わたしはようやく、その女性のことを思い出したが、玄関まで行くということ、外へ出るということが、突然、ひどく煩わしいものに感じられた。
 「どうしてここに入って来ないんでしょう?」
 とわたしは訊ねてみた。むろん、答えを望んでの質問ではなく、質問のかたちを成した不満だった。
 「それは、あなたがご自分であの方にお尋ねになればいいことじゃありません?」
 看護師は言って、横になっていたわたしに手を差し出した。その手を握って、わたしは起き上がり、ベッドからふたたび下りた。
 廊下はまっすぐ玄関へ通じていた。かならずしも大きいとは言えないこの田舎の医院の廊下にしては、それは意外にも長いものに感じられた。外が明るいにもかかわらず、この廊下は時の巡りから切り離されているかのように薄暗く、ひんやりとしていた。さすがに今は明かりを点ける必要こそなかったが、物の色がぼんやりとするだけの暗さが全体に万遍なく通っていた。廊下のいちばん向こうがそのまま玄関になっていて、両側に全開されているその入口に、光の壁のように明るい戸外が望まれた。そこから効率悪く入ってくる光が、床や壁に、あるいは天井に、ところどころ古い泉の冷たい水のように滲み広がっていた。

 (第二十五声 続く)



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