2017年11月6日月曜日

『シルヴィ、から』 61

 複声レチタティーヴォの連続のみから成るカンタータ叙事詩
 [1982年作]   

  (第二十五声) 4

  (承前)

このようにふたたび当時の現実を生きながら、なにひとつ失われることはないのだ、とわたしは気づいた。
時は流れる、という考えには誤りがある。なにひとつ流れ去りはしない。ある状態が消えて、新しい状態に変わるのでなく、むしろ、ある状態しかなかったところに、新しい状態が加わるのだ。人間の感覚には、次々生まれるその新しい状態にのみ感応していく能力しかない。古い状態は消えたのでも失われたのでもないが、人間の感覚がそれらを、消えたもの、失われたものと捉えることによって、この世の中が成立している。逆に言えば、人間がそのように感じることによってのみ、かろうじて成り立ち得るのが、この世の性質であるに違いない。
ほとんど、一瞬のうちにこういったことを考えめぐらして、ふと気づくと、半袖の薄着で寝転んでいるのには、やや肌寒くなってきているのがわかった。見る見るうちに空が雲に覆われ、冷たい風が、強くあたりを払うようになった。
それでもしばらくは目を瞑って、芝生の上に横になっていたが、やがて、さっき一緒にパッティングをやった友の、
「おい、こりゃ、雨になるよ」
という声が聞こえた。
見ると、今にも降り出しそうな気配になっていた。
わたしは立ち上がって、宿舎に向かって友人とともに急いで歩いた。
途中でぽつぽつと雨滴が体を打ち始めた。走って宿舎の玄関に入り、風にあおられてカーテンのように踊る雨脚を入口からしばらく眺めていたが、そうしながら、今、芝生に横たわっていた時、暑い夏の日中に自分の家で、やはり寝転がっている情景を、まさに現実そのものとして生きていたのを思い出した。
まさに現実そのものとしてそれを生きていた以上、わたしはあの時、同時にふたつの異なった現実を生きていたということになる。
同時にふたつの異なった現実……?
本当だろうか?
ちょっと、……いや、全く違うのではないか?
待てよ、わたしは今、いったいどこにいるのだろう?
ウィンクフィールドの宿舎?
いや、違う。
しかし、雨に追われて駆け込んだのだ、ウィンクフィールドの宿舎だ。
ーー違う、そうではない。
しかし、確かに雨は降っていた。
激しい雨だった。
強い風が、時々、わたしの顔に横ざまに雨をしぶかせた。
到着した時には、わたしはびしょ濡れだった。
到着した時?
どこに?
宿舎ではない。
わたしは友人とともに、ーーいや、友人ではない。
では、誰とともに?
合宿所の中の舗装された道を走って、ーーいや、舗装された道ではない。
空は雲に覆われていた。
その通りだ、低く、重く、雲は垂れ込め、強い風を受けて、次々と空を走って行った。
嵐のようだった。
長い嵐だった。
頭の先から足の先までずぶ濡れになって、わたしは嵐の田舎道を歩いていたのだった。
その道の傍らで、裸の青ざめたひとりの娘を見つけた。
赤革の鞄をそこに残した。
裸の娘を抱きかかえて、道を急いだ。
白い医院に向かった。
裸のまま雨に打たれている娘が、わたしの腕の中でどんどん縮んでいった。
医院に娘とともに到着した時には、彼女は乳飲み子ほどに縮んでしまっていた。
開いていた医院の入口から入った。
暗い廊下を駆けた。
診察室に駆け込んで、医師に娘を手渡した。
看護師がわたしの肩に手を置いて、わたしを廊下へ連れ出した。
彼女は後ろ手に扉を閉めた。
わたしは、すぐそこにあった長椅子に座った。
わたしの額に手をあてて、顔をしかめると、看護師はどこかへ行ってしまった。
わたしは、……そうだ、わたしは医院の廊下の長椅子に座っているのだ。
座り続けたままだった。
長い間どうしていたのだろう?
居眠りしていたのかもしれない。
まだ熱がある。
だが、疲れはだいぶ取れたようだ。
平常ではなくても、さっきよりは熱もかなり下がったらしい。

立ち上がってみると、少しふらふらしたが、十分歩けるので、わたしは診察室に近づいて、ドアのノブを握ろうとした。
が、思い直して、やめた。
きっと、わたしが眠っている間に、ほとんど乳児といってよいほどに小さくなっていたあの娘は、息絶えてしまったに違いない。そう思われたからだった。
居眠りとはいっても、なにかずいぶんと長いこと眠ったように感じられた。
すでに、娘は遺体安置室にでも移されているのではないか、とわたしは思った。
たとえ、すでに死体となってしまっていたとしても、医師や看護師がいないところで彼女に会ってみたいと思い、わたしは向きを変えて、廊下を壁づたいに歩き出した。
少し行くと、地下へ降りる階段があった。そのあたりの壁を掌で撫でてみるうち、ちょうど手に、ひとつスィッチが触れたので、それを押してみると、階段の上に月明かりほどの光量の電灯が点いた。
階段を下まで降りていくと、扉がひとつあり、その表には「特別室」と書かれていた。
遺体安置室に違いない、とわたしは思った。
扉のまわりを探したが、この部屋の明かりのスイッチらしいものは見当たらなかった。
しかたなく、わたしは把手に手を掛けた。
開いてみれば、階段の明かりでも、どうにか中が見渡せぬものでもなかろう、と考えた。
把手を廻し、わたしは一気に扉を開いた。
すると、ーー光。
……なにが起こったのか、わからなかった。
光。
光。
たゞだゞ、光がそこには満ち来たっており、最初の一刹那には、それが長方形の白い壁のように見え、次にはその壁が、じつは微細な光の粒のようなものの集まりと見え、その粒のひとつひとつが尾を引いて、途方もない速度でわたしのほうへ、まるで、向こうから膨らんでくる巨大な風船の表面のように押し寄せて来るところだった。
予期しなかった、この途轍もない激しい光の怒涛に、わたしは目を瞠った。
そして、……


 (第二十五声 続く)



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