居酒屋とは
今は平気で言うし
繁華街あたりの風景を構成する
在って当然のもののひとつとも受け取られているが
柳田國男の『酒の飲みようの変遷』には
「何年にも酒盛りの席などには列なることのできぬ人たち、
「たとえば掛り人とか奉公人とかいう
「晴れては飲めない者が、買っては帰らずに
「そこにいて飲んでしまうから居酒であった
と書かれている
「居酒致し候」などと
貼り紙を出している酒屋に立ち寄る者の場所で
「つい近ごろまでは一杯酒をぐいと引っ掛けるなどは
「人柄を重んずる者には到底できぬことであった
と柳田は書いている
これを柳田が記したのは昭和十四年のことで
ずいぶん昔のことで私などには関わりがないようでありながらも
それでも
家の格式を重んじていた母が
1970年代のある正月のこと
参賀に出かけた父がどこかで一杯引っ掛けてきて
酔って帰って来たのをひどく罵り
新年早々から家の中に嫌な気分が領したのを思い出す
父は酒での失敗が多く
母に言わせればいわゆる酒乱であって
確かに我が家は父の酒のために絶えず騒擾を蒙っていて
日本中を北に南に逃げるように引越しを余儀なくされたほどだった が
まだ小学生だったか中学生になっていたか
子供の私でさえ正月ぐらい酔って帰って来てもいいようなものを
と父のことを哀れに思ったものだった
もうひとつ思い出すのは
放浪やあれこれの会社勤めをくり返した後に
人生を下りて仏蘭西革命周辺や欧羅巴浪漫主義の本だけ読んで
やや先取りがちに早々と余生を過ごそうと三十前に大学院に入った 頃
早稲田大学文学部仏文科の指導教授の加藤民男先生が
お好み焼きをずいぶん下等な食べ物のようにお考えだったらしく
誰かがこの間それを食べたとか言う話を聞いた後で
「君たちはお好み焼きなんかを食べるのかね?」と
まともな関東人にはふさわしくない話を聞いたという面持ちで
憐れむようにも見下すようにも戒めるようにも
おっしゃった時のことである
数百年江戸住まいの家系の私は先生よりもよほど江戸っ子で
なるほど「お好み焼き」などはあまり食べないものの
それでも関東人が食べていけないというほどのものではないと思っ ていて
どうしてこれほどまで先生がお好み焼きを軽蔑するのだろうと
ちょっと不審に思ったことがある
先生の頃までのフランス文学者に共有されていたかのような
日本の土俗性への忌避の思いがふと露呈したものか
とも思ったりしたが
存外先生おひとりのダンディズムやスノビズムの表われかもしれな い
その頃は世田谷の池ノ上や代田に住んでいて
電車に乗ったり買い物をしたりするのは下北沢と決まっていたが
駅から北沢2丁目から代沢5丁目へ抜けていく商店街の終わりには
ずいぶん旨そうなお好み焼屋があって
前を通るたびにいつか食べてみようと思い続けていて
たしか一度入って食べてみたことがあったような気がするが
旨かったのかそうでもなかったのか
全く覚えていないのはどうしてだかわからない
やはり先生のおしゃっていたように
関東人としては軽蔑すべき食べ物と見るべきだったのだろうか
いや
そういう考えを私は持っているわけではなく
お好み焼きがやけに旨かった晩のことを思い出しもする
それは寺や仏像を見ようとひとりで訪れ
奈良市内に宿を取った時のことで
めずらしく夕食にお好み焼きなど食べてみることにした際のことで
ひとりにしてはちょっと多めな量の
トッピングのいっぱいの豪勢なお好み焼きを頼んで
はふはふしながらペロリと平らげてしまったが
それが旨かったこと旨かったこと
確かその時も加藤先生のことを思い出しながら
こんな旨いお好み焼きに先生はついに出会わなかったのだなと思い
なんとも残念なことよと
心のどこかで嘆き節を呟いたりしながら
夜の奈良の街へとまた出ていき
宿に戻る前に興福寺のあたりの宵闇の中
あちこちのポツポツと料亭の小さな灯りがついている
どこかこの世ならぬ風情の中を歩いて行ったものだった
いざけ、居酒ということから
お好み焼きのことに思いが流れていくというのも
私という個人の独異性の為さしめるところか
そういえば
この独異性という言葉は
加藤民男先生の造語で
「独自」でもなければ「特異」 でもないところを狙ったものだそうで
私も便利に思い時々使わせてもらっているが
先生はこれを
どこで最初に使われたのだったか
訳されたアルベール・ティボーデの『スタンダール論』あたりでか
わからないが
この間神保町を冷やかしていたら
先生のこの古い訳本を置いている店があったので
今度もう一度行って
あちこち捲ってみることにしようか
なにせ現在
神保町へは歩いて十分で行ける場所に住んでいるのだし
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