2017年11月30日木曜日

『リュリュ』(譚詩1994年作)5


    2 ブラッサンスの国の首都で (続き)

 「リュリュには立たないっていうのは、どういうんだろう?よっぽどひどいオバちゃんかなんかかなあ。自分の妻を言っているのかもね。どう思う?」
 「妻っていう説にはすすんで賛成したいけれどね。まあ、ほかの場合もあるだろうね。好きじゃないのにむこうから好かれて、それがなかなかいい人なんだけど、どうもこちらがその気にならないっていうのがあるじゃないか。すごくいい人。だけども、まったくそそられない。友だちとしてはとても貴重で、自分もこんな人間になりたいと思わせるような人で、やさしくって、非の打ちどころがなくって、…だけど、ぜんぜん立たない。さすっても、こすっても立たないっていう人」
 「いるね。そういう場合ってあるな。しかも、いい人だから、事が喜劇的には収まらないんだよね。こちらとしては、立たないと義理も立たないという気になるわけだ。こんなに親切にしてくれるんだから、こんなに愛してくれるんだから、それに対して身体で報いたいとは思うんだけれども、まったくダメ」
 「たぶん、そういう場合を想像しとけばいいんだと思うけどね。でも、つらい恋の思い出っていう可能性もあるかもしれないよ」
 「歌詞だけで見るならね」
 「まあね。曲の調子が陽気だからなあ。無理かな。でも、リュリュだけは他の女とは違って、立つとか立たないとかいうレベルでない、もっともっと深い気持ちを起こさせるのだと考えると、なかなかいいと思うんだけどねえ」
 「もっともっとわだかまった感情が彼女に対してはある、というわけね」
 「そう見れば、かなりオリジナルな愛の表現なわけだ」
 「そうね。立たないということで、そこいらの性欲愛と一線を画して、人生全般とじかに結びつくたぐいの愛を表現してしまうわけね。かなり無理な解釈かもしれないけども、でも、いちばんいいなあ、この解釈」
 「愛してたんだよ」
 「立たなくなるほどね」
 「でも、ほんとに愛すると、そういうもんじゃないか?少なくとも、そういう時期を経るものだよね」
 「そう、そう、禁欲。自己犠牲。騎士道。試練。ヨーロッパ中世の真似をしようっていうんじゃなくとも、自然にそうなるよね。きみと寝たいなんて死んでも言えない。でもね、いちいち反論を立てるみたいだけど、そういう気持ちって、やっぱり若いうちだけじゃないかなあ。年齢が進むと、そういう愛って、信じなくなるでしょ?」
 「まあね。だけど、若い者が恋に苦しんで自殺したとか、そこまでいかなくても、不器用に振る舞っているとか、無口になっているとかしていると、ああ、いいなあ、純粋でいいなあと思うけどね。馬鹿にはしないな。自分の心は老いてしまったけど、あそこにはまだ若い心がある、そうして苦しんでいる。あれが、もう自分にはできないのだ、もう二度と、あの強い春風の冷たさは自分には吹かないのだ、そう思うんだよ。やっぱり、寂しいなあ」
 「それじゃあ、まあ、この歌、今日のところはそう解釈することにしようか。リュリュをそれほど愛していたというふうに…」
 「そう。うまくいかなかったわけだ。つらい恋愛」
 「つらい過去が『立つ』とか『立たない』とか言わせてるってわけね。心は今もなお癒えていない」
 「ぜんぜん癒えてない」
 「そう、それがよくわかる。わかるから、これだけバンデ、バンデと言っても下品でない」
 「下品じゃない、ほんとうに」
 「これがわからない女なんて、最低だな」
 「最低だね」
 「でも、そういうのって、多いよ。わからない女」
 「多いよねえ」
 「女なんて、そんなものかな」
 「そうなんじゃない?そんなものだよ」
 「そうか。ひどいね」
 「ひどい。最低だ」
 「最低だね」
 「ほんとに。人前に出せないってやつだね」
 「そう、人前に出せないってやつ」
 ミレーユと彼の妻のほうを見ると、女どうしで頷きあいながら、呆れたという顔をしている。
 私たちの女がそんなものではなく、最低でなどなく、人前に出せないってやつでなどないことを、彼も私もじつは思っていて、それをミレーユも彼も妻もよくわかっている。それが私にはよくわかる。
それにしても、すべてが終わっていき、崩壊していき、朽ちていき、滅びていき、忘れられていくこの世界の中で、これは幸福といってよい瞬間ではなかろうか?かつて安部公房がどこかに書いていた。幸福なんて言葉を留保なしに使っているやつを見ると、馬鹿じゃないかって思うよ、と。でも、安部さん、こういう瞬間というのは、幸福と呼んでもいいのじゃないだろうか。それが瞬間である以上、一瞬の後にはもう失われているのだから、留保なしに幸福と言ってみてもいいのではないか。瞬間であることによって、何にもまして絶対的な留保が付いているといえるのだから、これならあなたの美学にも合うのではないだろうか。
 どうしてだかわからないが、私のリュリュの思い出が蘇ってくる。
 失う、などという言葉が頭に浮かんだからかもしれない。
 フェルナンドでもなく、フェリシーでもなく、レオノールでもない。ミレーユにもまだ会っていなかった。
 リュリュだ。

 (第2章 終わり)



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