2017年11月15日水曜日

『せせらぎ』(譚詩1991年作)  6


 (承前)

     

 妻が亡くなって、わたくしの毎日の生活にすぐ変化が現われたのは当然としても、もうひとつ、はじめは自分では気づきにくかった別の変化が、数ヵ月後にははっきりと自覚されるようになってきました。それは、わたくしの描く絵の対象と、描く絵の数の変化です。
 妻が生きていた頃には、学校の授業が終わった後も、すぐには家には戻らずに、いつも美術科研究室に残って、数時間ほど絵を描くことにしていました。週に二三回は、美術部の学生たちも残って各人の制作に励むことになっており、そういう日には、彼女たちの指導をしながら、わたくしもときどき自分の画布の前に戻って、少しずつ描き込んでいくというふうにしていました。
 わたくしが主に対象としていたのは、花でした。切り花を置いたり、鉢植えのものを買ってきたり、あるいは戸外で目にした見事な、しかし採ってくるわけにもいかず、折りとってしまうこと自体がかわいそうで出来かねる花を、想像のうちに再現したりしながら、来る日も来る日も花を描き続けていました。わたくしは制作のはやいほうでもありませんし、急ぐ理由もありませんでしたので、さほど大きくないひとつの絵を仕上げるのに、二週間か三週間ほどはかかったものです。出来上がった後でも、どこかに出品するでもなく、家や研究室のどこかに掛けようと考えるでもなく、しばらくは無造作に研究室の片隅に立て掛けておくというふうでした。
 どうしてあの頃のわたくしが、あれほど花ばかりを描いていたのか、あの頃も今もわかりません。妻が入院して、いよいよ、長くてもあと数ヶ月の命だと医師から言われた頃、病院に行かない時はよく、美術科研究室に以前よりも長く残って花の絵を描いていたものですが、研究室近くの体育館や廊下から生徒たちの声が響いてくるのもいつの間にか止んで、すっかり静まりかえった校内で絵筆を動かしながら、よく、どうしてこんなに花の絵ばかり描くのだろうと考えたものでした。いくら考えても理由はわかりようもありませんでしたが、病院にいる、あと幾らも生きられないであろう妻から一時離れて、花を前にしてひとり、静かな校内にいて絵筆を動かし続けていることは、なぜか、とても状況にふさわしい、正しい行為のように思われました。なんといったらよいか、わたくしが花を描くことは、わたくしが妻とともに生き、彼女が生を終えていくことをも生きるというひとつの時期に、この上なくふさわしいことのように思われたのです。
 妻が亡くなった後、しばらくの間は、葬儀や埋葬に伴う諸事に忙しく、また、ひとり暮らしのたどたどしい始まりという点でも、気を張っていなければならない状態であったので、絵を描くような余裕はほとんどありませんでした。ふたたび絵筆をとろうという気になったのは、何ヶ月ほど経った頃のことだったでしょうか。それがいつだったか、もう正確には覚えていませんが、ある放課後、妻の死後ずっとそうだったように、手早くその日の後片付けをして帰ろうとしていた時に、ふと、今日は少し残ってひさしぶりに描いていこうか、という気になったのでした。
 描くとなれば、なにか花が要ります。どこかで鉢植えを借りてこようか、近所の花屋までちょっと行ってこようか、それとも、今日のところは、なにか思い描いてデッサンを始めることにしようか ……
 しばらく、そんなことを考えるうちに、わたくしは、今までとは違うものが心にあることに気づいたのでした。描きたいという気持ちがあることは確かなのですが、花を描きたいのではないのです。心には、山や森が見えていました。自然の風景を描きたい。わたくしにふたたび絵筆をとらせたのは、非常に激しい、しかし、静かな、そうした欲求のようでした。

(第二章 続く)



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