3 リュリュ
その頃、本当に若くて、時の流れが飽き飽きするほど遅くて、未来は漠然としていて、わけもなく輝かしく見えていた日々、私は毎日のようにその人に会っていた。名前はやはり、リュリュということにしておこう。
私の通っていた大学の最寄り駅から二駅目に、こじんまりした小駅があった。乗降客はいつもわずかで、そのあたりでは両側から電車に林がせまっていた。大学がひけると私はその駅で降り、右に折れる道をたどり、しばらく商店街を通る。林に入る。松林で、四季を通じて清潔な雰囲気だった。林の尽きたところから、また別の商店街が始まるのだが、その並びの四つ目に喫茶店があり、《ブラック・ウィドウ》と英語で書かれた看板がドアの上に掛かっている。リュリュはいつもそこにいた。いつもそこで私を待っていたり、いなかったりした。
いつもそこにいた、というと嘘になる。彼女が姿を見せるのは、必ず夕方の五時半以降になってからだった。五時までは隣りの駅前にある銀行で働いていて、退社するとたいてい真直ぐに《ブラック・ウィドウ》に来る。五時半ちょうどに来ることもあれば、四十五分ほどに来たり、六時頃になって来たりと、まちまちだったが、そうした時間の差は途中であちらこちらの店を覗いて来るために出てくるので、銀行はほとんどきっかり五時五分から十分のうちに出ているのだった。
「そんなにすぐ出てきちゃっていいものなの?」
まだ大学生で、職場というものが、場合によってはどれほど微妙ないやらしさの渦巻くところかを経験していなかった私は、そう聞いたことがあった。
「男の人たちはそうでもないけどね。私なんかはいいのよ。私の人生とはなんの関係もないしね」
「だって、ちゃんとした行員でしょう? 毎日行っていて、八時間も過ごしてくるんだよ」
「そうよ。でも、それはそれだけのことよ。八時間いようが、二十時間いようが、私とはなんの関係もないわ。私はきっと、これからも、ずいぶん長い時間をあの銀行で過ごして、そうして時間を奪われて、歳をとっていくんだろうけれど、それは、ただそれだけのことなのよ」
「でもさ、仕事って、自分の人生なわけでしょ? 少なくとも、大事な一部でしょ?」
彼女が激しく噴き出したことといったら! 熱いコーヒーでも口に含んでいたら、顔じゅうに吹きかけられるところだったはずだ。
「あなたってケッサク。ほんとのおバカさんね。試験だったら零点よ。仕事が自分の人生ですって?」
「言い方がヘンだったかな? でも、そうでしょう? 違う?」
「違うわね、ぜんぜん。詳しく言うと面倒だから、簡単に言うわよ。まず、第一。『自分の』人生なんてないの。存在しない。第二。仕事はあなたの人生ではないし、なんの重要さもないの。第三。あなたの人生なんて、あなた自身にとってなんの価値もないのよ。ハイ、以上。わかった?」
「わからないよ、そんなの」
「やっぱり、ダメか。まあ、そのうちわかるわよ。わかってもわからなくてもいいんだけど、わかりたいんでしょ? わかるわよ、きっと」
というようなわけで、彼女自身とはなんの関係もない仕事を終えて、五時五分から十分の間に銀行を出、五時半から六時の間にはいつも《ブラック・ウィドウ》に来て私の前にいる、ーーこれが私のリュリュで、これが私たちのいつもの会い方なのだった。
リュリュはたいてい黒い装いで、たまに色のものを着るとしても、黒の上に目の覚めるような鮮やかなブルーのブルゾンだけを羽織るといった調子で、いつもどこかに思い切りのよさがあった。コケティッシュではなかったが、こうした思い切りのよさからは、ある種の魅力が生まれるものだ。むしろ男性的といってよいその魅力は、腰まであるしなやかな髪といっしょになることで、両性的なものへとかわり、さらに、腰に特にいちじるしく現われる彼女独特の歩き方を伴うことで、ふつうでない、いたましさのような、僥倖のような、他の誰にも見出せないような印となっていた。彼女は足が悪かったのだ。
(続く)
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