3 リュリュ (続き)
はじめてリュリュの家に上がった時のことが思い出される。
初夏の夜だった。
リュリュの友人が、《ブラック・ウィドウ》からそう遠くないパブで、サクソフォーンの小さなコンサートを開いたことがあった。それを聴きに行った帰り、リュリュと話しながら家まで送って行くうちに、今夜はもっといっしょにいたいと思った。少し悩んだが、思い切って言ってみた。
「ねえ、今日、家に入っちゃいけない?」
「そうねえ…」
ほんのわずか間をおいて、彼女はこう言い足した。
「コーヒー入れたげるわ、インスタントでよければ」
「いいよ。それでいい。十分だよ」
そう言って、さらになにか、気のきいたことを付け加えようと考えていると、リュリュがまた、ぽつりと言った。
「…あなたなら、大丈夫だと思うから」
この言葉を名誉なことと思うほどに、私はうぶだった。リュリュは、どういうつもりでこんなことを言ったのだろう。この言葉を言う前のわずかな言い淀みに、彼女のどんな心を読み取ればよかったのだろう。
女といる時、男であることは、実際、容易なことではない。稀だといわれる男女間の友情を、しっかりと維持してみせるべきか、それとも、もう愛情や欲望を隠し通すことはできないと、はっきり見せるべきか、瞬間瞬間が綱渡りであるといってよい。「友情」の岸に立っていれば、安全でいることはできる。「大丈夫」でいることはできる。しかし、女が別の岸を実際に望んでいて、彼女なりのサインでそれを示したとすれば、その時は安全だったとしても、安全に見えたとしても、本当のところは、静かにすべてが終わりを告げたのである。瞬間瞬間が綱渡りであるというのは、このためだ。
リュリュはどうだったか。
あの夜以降も私たちは会い続けたのだから、すべてが終わりを告げたというわけでなかったのは確かだ。しかし、「友情」とは別の岸を、彼女がそれとなく離れたのも確かだったのではないか? 私に対しては、あくまで「友情」の岸に留まることにし、そうした態度をはっきりと保つことで、私との繋がりを逆に強く大切なものにしていこうとしたのではなかっただろうか?
その夜は、インスタントコーヒーを一杯飲んだだけですぐに帰ることにしたが、帰り際に玄関で、
「…顔を触っていい? あなたの顔に触りたいの」
そう頼んだ。
「そっとね。やさしく…」
言うと、リュリュは目を閉じた。
右手で、触れるか触れないかという優しさで、リュリュの顔の表をたどった。
この時のリュリュの振舞いと「そっとね。やさしく…」という言葉こそが、おそらく、「友情」とは別の岸辺への誘いの表現だったに違いないと悟ったのは、かなり後になってから、なにもかも完全に取り返しがつかなくなってしまってからだった。
(第3章 終わり)
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