2017年12月9日土曜日

『リュリュ』(譚詩1994年作)10


5 死

  (承前)

 「そうですか。葉書、よくとってありましたね。それで、どうなんですか。なにかわかったんでしょうか」
 「いいえ。それがぜんぜん。お友だちといっても、ほとんどいないようなもので、アドレス帳にも数人しか書いていないんです。勤めている銀行のほうでも、なにもわからないんです。ただ、銀行のほうには、しばらく休むという願いを出してあったようです」
 「休む理由は?」
 「それが、『私用』ですって」
 「そんなので通っちゃうんですか、こんなに長く休むのに?」
 「ええ。銀行のほうでも、ちょっと困ってきていたところみたいですけれど… こんなに長く休むとは思ってなかった、って言われました」
 ふと私は、リュリュがよく言っていたあの言葉、「仕事はあなたの人生ではないし、なんの重要さもないの」という言葉を思い出した。いかにもリュリュらしいやり方とも思えたが、同時に、リュリュからこれほど遠いやり方もないと思えた。というのも、規則正しくOLとして毎日を過ごす普通の生活の他に、リュリュにはなにも必要などないはずだったから。急に旅に出るとか、すべてを捨てるとか、駆け落ちするとか、自殺するとか、精神的に参ってしまうとか、そんなことはどれも、リュリュには必要がないはずだったから。彼女はそこに、普通の人のようにいるだけで、それで十分奇跡的な存在だったから。そういう彼女だったからこそ、「自分」の人生なんて存在しないという言葉も、仕事は人生ではないという言葉も、人生に価値はないという言葉も、まるで真理のように、すらっと語ることができたはずだったから。
 としたら、リュリュもまた、リュリュでさえ、普通の人間に過ぎなかったのだろうか?そんな奇妙なことを私は考えた。特異な存在は普通の生活の中にしかいないという私の確信と、特異な存在だけを友としていこうという性向とから、こうした考えが出てきたのだが、これは端的に言って、私の内部におけるリュリュの失墜を物語るものだった。勝った、と私は思った。心の中で、リュリュというイメージを乗り越えることに成功した、と。今、リュリュは普通の人間になり下がり、普通の人間がやるように、なにかの苦悩を抱えて失踪したのだ。それとも、誰かと秘密の恋の逃避行か?あるいはまた、人生の空しさに耐えられなくなって自殺したか?いずれにしても、もう私が心の中で頼るべき相手ではなくなってしまったのだ。私はリュリュに会わないでいられることを証明したし、リュリュのほうは、その証明を目のあたりにして、たぶん、崩れていったのだ。一週間ほどの期間会わないでいるというだけの些細な挑戦が、私に心の独立と力を与え、リュリュには、予期していなかった何らかの崩壊を与えたのだ…
 こういったことを私は、本当に考えたのだろうか?
こういう考えが頭をめぐったのは確かだが、それはそれだけのことで、私が考えたというのとは、かなり違うという気がする。自分の頭に次々と浮かぶ考えと、自分が本当に考えたこととは、まったく別であるとみなすべきだろう。各瞬間ごとに自分で真剣に思考の道筋を踏んだ末に出した考え以外、自分の頭の中のものなど、けっして信じてはいけないのだ。
が、こうした判断はまだ、当時の私にははっきりとはできなかったはずである。私は漠然と、やはり、自分は乗り越えた、段階をひとつ越えた、勝った、などと思っていた。乗り越えるということや勝つということへの情熱は、言うまでもなく、精神の幼稚さをもっともよく示すものである。当時の私は、この時、自分の内部からひとつの貴重な外部が消滅していくことに気づかなかった。自分の内にあって、自分を作っている境界線に絶えず繊細な切れ目を入れるもの、内部が外部から遮断されるやいなや、すぐにまた風穴を壁にあけるもの、自分を外部にする微小な装置。そうしたものが失われていくことに、気づかなかったのだ。
リュリュの失踪によって、私の内的な外部が失われたというわけではなかった。その失踪に際して、リュリュという存在をひそかに支えとしてきた自分を乗り越え得たと考えたこと、他ならぬこのことによって、私は外部を失ったのだ。自己の超克、自己の発見、成長、そういった認識はつねに、より深い自己幻影への没入に過ぎない。超克や発見や成長を説く人々があれほど醜く幼いのは、そのためだ。リュリュなら、私の自己超克のこうした認識など、笑い飛ばしたことだろう。しかし、リュリュはもうおらず、私はすでに、自分の幼い認識の虜になってしまっていた。私が勝利と考えたものは、じつは、同時に、最大の敗北でもあるものなのだった。
死んだのは、私だった。しかも、私はその時、この上なく、生きる自信に満ちていたのだ。外部を失うことは、人に、必ずなんらかの自信を与える。確かに、生きるということをどう定義するかにもよるのだが、今の私には、こうした自信にもとづく生は、じつは死と呼ぶべき幻影に過ぎないと思える。真の生は、生きる自信も、さまざまな知識への確信も、価値観も崩れていく中にのみ現われてくるもの、と思いたい。そのぐらいの幻術は、いわゆる現実界に、どうも備わっているらしいという気が、今の私にはしてならないのだ。

  (第5章 終わり)



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