2017年12月2日土曜日

(モウ戻リノキカナイモノ。ソレトトモニ行ケ。 (行ケ

[2000年7月作 2017年12月ネット端末用再構成]



For unto us a child is born……… (イザヤ書九章六節)

論理や組織や支配といったものが忘れ去られるべきなのは、
それらがまず私達に本質を忘れさせるところから始まっているからなんですよ。(ジョン・ケージ『小鳥たちのために』、青山マミ訳、青土社、1982)

For unto us a child is born………

構造化、より正確には無構造化……
構造化、または無構造化……  
(ジョン・ケージ、ibid.)
私はなにかを失ったなどという気がするどころか
音楽の構造の真只中に、あらゆるありそうな騒音を受け入れる必要に迫られていると感じたんです。
調性こそ喪失だった。私の目には、調性は浪費に、可能性を閉じることに見えました。
(ジョン・ケージ、ibid.)

あらゆる騒音が私の関心をひいたんです。
確かに私はその当時本当に一文無しでした。
もし私がもう少し裕福だったら、もう少しありきたりな楽器を使っていたかもしれない……。
おそらく、音楽と貧乏の間にはなんらかの関係があるんです。
(ジョン・ケージ、ibid.) 

For unto us a child is born, (われらにひとりの嬰児生まれたり。
unto us a Son is given, (われらひとりの子を与えられたり。
and the goverment shall be (まつりごとは
upon His shoulder ; (その肩にあり、
and His name shall be called  (その名は不思議、
Wonderful, Counsellor, the Mighty God, (議士、ちからある神、
the Everlasting Father, the Prince of Peace.(とこしえの父、平和の君と呼ばれん。

この(思い)、
幸福でなければならぬ、全き、サチ、
……フク、
あなたも、あの
ひとたちも、わたくしも、……この、思い、
カミ、を、
禁じた国で、(いいえ、政治の、お話ではなく、もっと心ごころの、底で、)↓

【私がよりよい政治体制などないと言うのは、現在の政治体制がよいという意味ではありません。
どんな政府であろうと、あらゆる政府をなくすべきだという意味を含んでいるんです。
統治するという行為をなくさなければならない。そのためには闘う必要があるわけです。
そしてこの闘いはあらゆる領域でなされなければならない。
最も重要なのはテクノロジーの領域です。】 
(ジョン・ケージ、ibid.)

わたくしはすっかり否定いたします。(コレハ、引用デハナイ……
でも、なにを、か、
わからない。
否定せよ、と血がエメラルド色の星屑を脳の隅々に行渡らせる。
(わたくしは今夜イエス様と居させていただいております。
(あのかたはまたお生まれになった。わたくしのうちに。わたくしはあの方の
お家。

For unto us a child is born………

死すべきものがまだ生き残っており
その者たちには海があまねく浮遊して天を覆うような壮大な死が贈られるであろう。
とエメラルド色のわが血は叫んだ。カミよ、
二十世紀から二十一世紀に日本人としてわたくしはあなたのお家となった。
カミよ、どの神でもないカミ、生まれたばかりの暁の波の、
打ち寄せ、崩れ、ひとりで(わたくし)、立っておりましたの、ここにずっと、あなたの母、母体として。……

     (、あ、わたくし、清浄、不思議、光、 あ、     
  ……ほんと?)

波よ、死すべきものはいない、と(わたくしは)解放する。

解放、

した。

言う[とは、こういうこと。忘れたままだった同胞たちよ]。

(ここまでは、まだ、助走、 ここから、
 (はじまる………、
みどりのもの、また、石、動く石、
あたりをつけたら、こんどこそ試してみる。ひかりを求めているのでは
もう、ない。春の体液を必要と
もう、しない。繊細な風にくすぐられるように甦りの予兆は肌の下を走る。
この軽快さはいったいどこから来るものだろう高原がほそい水流となって
澄明な管楽器の音となって滑っていくではないか。
ぼくハわたしトイッタリわたくしトイッタリ月見草ミタイナのんびりさデ
するするするする魂を伸ばしていくのだよ
するするするすると生えあがってくる都市があるが先を急ごう、夜に
温かい電線を張りめぐらして産毛をそっと残しておいてやって
寺院たちの沈むみずうみを唇のなかにそっと埋めて。

(ぼくはクリシュナの生まれ変わり、 (あら、まあ、) 、笛吹いて、


  これは秘密。独楽遊びに、これは、秘密。草と、ボタン、(牡丹、じゃなくって)
影がながくあなたの黙ったままの子に糧を与えている。
その子が、カミ、影は、この世界、お乳は惑星たちの運行の律儀さ。
結婚というものがすべて星と天空に関わる科学だったと悟って
わたくしたちはあんなに高い山までも☆☆☆を見に行ったじゃないの? 秘術など
ないのだから。☆☆☆のように
ありのまま、そこここに、みんな、良きものは。ね?

人間と呼ばれるもの(非もの、?、)に猶なにが言えるかをここに見よ。わたくしは
人間とまさしく呼ばれうるものでありあなたがたの器である。壊しに
来た、ひとびとの、旗。棉、9、至。言葉は
言葉でないものを表現するためのものではない。
それは闇にいくらか埋もれた固い散り散りのひかりの破片。
ちりじりの。

ちり、じり、の。

ありがとう、ニッポン語。これは至上のことば、響き、、、

ちり、じ、り、の、

(…………ここまで、来た、といっていいの、か?

ちり、
じ、
り、の、
chiri,
ji,

ri, no,

   For unto us a child is born………

私は伝達という概念より、対話とか会話という概念のほうがずっと好きですね。伝達というのは、伝え合わなければならないなにかが、対象物があるということを前提にしている。私が考えている会話は対象物に基づくようなものではないんです。伝達するということは、常になにかを押しつけることです、対象物に関する談話、ある真理、ある感情を。ところで会話の中では、押しつけられるものはなにもない。
ーーしかし、なにも押しつけられなければ、どんなことでも言えることになってしまう……。
 その〈どんなことでも〉によって近づきうるのが、私がいうところの開かれた状態なんです。つまり、過程、サーカスの状況なんです。その状況の中に対象物が立ち現れる。けれども伝達ではなく会話を問題にするということは、対象物について語るのをやめるということを意味しているんです。話されるのは、これとかあれとかの対象物ではありません。それがサーカスの状況ですよ。過程なんです。 
(ジョン・ケージ、ibid.)

二人の人間が異なった感情をもつとすれば、それこそが対話を可能にする、………
(ジョン・ケージ、ibid.)


 わたくしがミドリのインク(、インキ、)を使って書くとき
若葉のうえ、枯葉のうえ、
インク(、インキ、)の水分が乾くまで
     ぜひ待っていてください。あなたは。

そこは引用ではないからです。 そこは、
はじめての、生き、の、舞台。
For unto us a child is born………
(だれ、この、a child 、は?)
インク(、インキ、)の水分が乾くまで
あなたのかたわらに、……
           そして、あなたに繋がっている。
           、a child 、
           お望み?
           なら、いつ、
           までも。


(モウ戻リノキカナイモノ。ソレトトモニ行ケ。
(行ケ




*イザヤ書第九章六節の日本語訳については、『ヘンデル・メサイア』(ジョン・エリオット・ガーディナー指揮、イギリス・バロック管弦楽団+モンテヴェルディ合唱団演奏、フィリップス、1982)のリーフレット内の佐藤章氏訳をお借りした。もっとも、引用章句を記した時点で心に鳴っていたのは、トーマス・ビーチャム卿のあの壮大な演奏による『メサイア』のほうである(Handel : MESSIAN,  by Sir Thomas Beecham & Royal Philharmonic Orchestra, Recorded 1959, BMG Classics 1994) 。

*ジョン・ケージの『小鳥たちのために』については邦訳のみを用い、今回、原本(John Cage : Pour les oiseaux, Belfond, 1976)には当たっていない。そのための誤解があればご教示願いたいし、わたくしの思念上の訂正を後に行いたい。

*この「(モウ戻リノキカナイモノ。ソレトトモニ行ケ。(行ケ」は、御覧戴いたようなかたちを成す前に「これはもちろん詩ではなく引用の織物でもない。ふふふ。」という助走詩篇を備えていた。For unto us a child is born………というイザヤ書の一節が侵入してきた瞬間にすべては変質し、その部分は明らかに不要なものとなった。不要なものを、どうして、此処に置き直してならないだろうか? やや小さな文字で………



これはもちろん詩ではなく引用の織物でもない。ふふふ。

(如是我聞、ふふふ、)

平和? ふん。
年長者? ふん。
戦後の五十五年? ふん。
神の国? ふん。
憲法? ふん。

政治的な体制など、一時的な変化であるにすぎない。
ひとつの体制に一心に奉仕することで、自国のすべての利益に背いてしまうということもある。が、自国に奉仕する場合には、背くといっても、せいぜい、体制という一時的な変化に対してにすぎない。(シャルル・モーリス・ドゥ・タレイラン・ペリゴール)
わたくしの為した善行のほうが、わたくしの犯してきた罪以上に恐ろしいものである。(マルティン・ルター)
(モウイチド、もいちど、moichido,
如、是、我、聞、
と記しておいても、記さずにおいても、いいだろう、方便から、または、言表における責任逃れ、から。ふふふ、ふ、)
少年たちよ望むらくはこの汚辱の社会の根底を汝らが完膚なきまでに壊滅させるように。
少年たちよ独り独り人類に抽象的に向きあって勝ち目なき幻影の戦を遂行し
少年たちよテロリストとして汝らにも寂しき終焉の来たらんことを
キヨよ、『人間の条件』の。
ジュリアンよ、『赤と黒』の。
ラスコリニコフよ、『罪と罰』の。
ムルソーよ、『異邦人』の。

非加熱製剤回収を命じなかった厚生省役人ほど少年たちが悪いとは思えない。
世界中に経済的な支配をめぐらしてIMFという搦め手でアジア経済を破壊したアメリカほど少年たちが悪いとは思えない。
都の水源にゴミ処理場を作った役人・技術者たちほど少年たちが悪いとは思えない。
ひとの死に際して実質の伴わない莫大な戒名料金を請求する商業仏教ほど少年たちが悪いとは思えない。
公的資金投入を受けながら抜本的な体質改善を怠り続けて中小企業への貸し渋りを続ける銀行ほど少年たちが悪いとは思えない。
数百年に渡る植民地時代の政策責任にたいして完全な頬かむりを続ける欧米諸国ほど少年たちが悪いとは思えない。

しかしやり方が、少年たちよ、汝らとは異なっている。わたくし、たち、は。ね、
タレイラン先生?

休み時間には図書館に引っ込んで、そこで目についた、あれこれのもっとも革命的な書物を探してはむさぼり読んだ。あらゆる国々の歴史や反乱、一揆や大動乱が、わたくしの心の糧となった。(タレイラン先生の自伝、から、

若くして、不祥事を企むこと、誠実なひとびとの意見を軽視することを学んだ。(これも。

中庭を、小さい半ズボンに黒絹の外套という姿で散歩したのを覚えている。そこの壁には、小刀で彫り込まれたたくさんの日付があったが、それを読むのが楽しみだった……… 孤独を好み、あまり同輩たちと交際しない者がいたとすれば、わたくしこそがそれだった。そこの神学校で、わたくしは小さなナポレオンを気取っていた。(また、先生自伝から。

知るということには三種類ある。本来の意味での「知る」ということ、ほかに、処世術を意味するものと、処理能力を意味するものと。しかし、後のふたつが備わっていれば、まあ、通常、最初のものはどうでもよいわけである。(これも。
たしかに、この世をじぶんの真の舞台と見なさなくなった者には、そうですね、先生。
ほんとうのじぶんとやらを、この世で表現しようと
やっきになる愚か者が後を絶ちませんで、まあ、うるさいことでございますよ、先生。

文学も芸術も、
非・表現ですのに、
どうもねえ、表現者とかいう愚劣な言葉が流行ることさえあって。

「世界が四千年を迎えた時、アブラハムの遠い息子、永遠の神の子イエス・キリストがひとりの処女からお生まれになった」(ボシュエ)。ここを暗誦なさいな、とタレイラン殿はわたくしにおっしゃいました。そして、こう教えてくださったのです。神聖な事柄というのは、このように表現するのがふさわしいもので、このようにしかありえないものでもあるのですよ。こうすることでしか、受け入れさせることができないのです。ほかのどんな形式も役には立たないのですよ。それというのも、権威に欠ければすぐに疑念が生じるものなのですから。(ドゥ・ディノ夫人の回想。

しかし、愚かしい説明の時代が続いておりましてね、先生、………
文芸を説明と取り違えている者も多数いるような次第でございまして………

彼らは歌っている。彼らはその支払いをすることになるだろう。/ 一国民の気質が移り気であるほど、そこの政府の形態には気を配っておく必要がある。/ 金融業者どもという手合いは、国家が拙劣な任務遂行をしている場合に限って、じぶんたちの仕事をうまく運ぶものである。(マザラン。

どのような事柄、どのような人々であれ、優雅さと気取りのなさとが、そこに一体となって体現されているならば、それを高雅なものとして認めて然るべきであろう。(タレイラン先生。

世論は制御力として有効かもしれない。しかし、それは政府にとって危険な案内人でもある。(先生。
どこまで行ってよいか、どこまで行ってはならないのか。街頭のひとびとは、それを教えてはくれない。(オリユ『タレイラン伝』

そう、先生、「神の国」という言葉が、ユーモアもレトリックのセンスも削がれて
マッカーシズムの時のような扱いを受けて。
言葉は含意の九〇パーセントほどがふんだんに遊びを含んで機能すべきものなのに
あらあら、
非難する側も青筋立てるばかりで、
チェスタトンもラムもデフォーも読んでないみたい。(なぜか、イギリスに助けを求めることになりますね、先生。温雅で、やんわりと、しかし、深く辛らつな受け答えの模範を求めるとなりますと、ね)
先生、シャトーブリアンなどは生硬冷酷な口調で(まったく、あのひと、ときどき大人げないものだから)「ドゥ・タレイラン氏は、歳を重ねるにつれて 死相を帯びてきた」と評したりしたのに、先生、あなたはやんわりと、
「シャトーブリアン氏という方は、あれですな、他人が氏について話をしなくなると、ご自分の耳が聞こえなくなったんじゃないかと思うような方ですからな」などと返したりしたものでした。

こんなやりとりも、また。
「会議は進まない。会議は
 踊っている………」。ドゥ・リーニュ公爵。ウィーン会議の際に。
「そして、会議は踊りをやめないまゝ、彼を葬ったのです」。タレイラン先生。ドゥ・リーニュ公爵の葬儀に際しての祈祷の言葉。

まったく、貴公の驚きはどうなさったものか! そんなに大騒ぎすることがありますかな? 謀反人が国境ちかくで捕らえられて、パリに連行され銃殺された。それがそんなに驚くべきことでしょうかな? 政治問題とはね、そうしたものですよ。(パスキエ『回想録』。ダンギャン侯爵処刑に際してのタレイラン先生の反応。


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