2018年2月28日水曜日

コードの身で



わたしは箱だったが
この前バナナになっていた

もちろん
そんな変身はありきたりのことなので
特筆すべきことではないし
人にわざわざ伝えるほどのことでもない

だが
せっかくバナナになっていたのに
ついさっき
USBのコードになっていた

これにはがっかり

コード部分っていうのが
ビミョーじゃないか

まるごとバナナだったほうが
やっぱりよかった
と思うわけなのである

傷心を癒すべく
旅に出てしまった

コードの身で
旅に出るというのも
せつない

目立たないし
ろくに相手にされないし

風が吹くと
ヒュー
ヒュー
鳴ったりもするし



もっと怖い



その廊下の電灯を
ずっと点けっぱなしにしてしまっていた

うちには廊下が何本もあって
正確には本数がわからないのだが
たぶん48本か
47本ぐらいだと思う

そのうちの一本の長い廊下の電灯を点けっぱなしにしていた

気づいて
消したのだが
ちょっと
ヒヤッとした

廊下が暗くなったら
嫌がるなにかが
やっぱり
いたのだと思う

けれども
わたしが通りもしないのに
電灯が点けっぱなしになっていた廊下の
あの無人の明るさを思うと
それはそれで
もっと怖いように思う



彼女は1979年に65歳で亡くなった



そろそろ政治の話に踏み込もうか?

必死で避け続けて
現代詩のもっともダラダラした軟弱な口ぶりを
要所要所で利用して真似てきた努力も
そろそろ投げ出して?

まずはあらゆる左翼の批判から始めなければならないが
もちろん右翼の馬鹿さ加減を受け入れた上で言うわけではない
右翼が絵にかいたような馬鹿だと認めるのは当然としても
左翼がアメリカを糾弾しないままでは
どんな議論も始まりようがない
アメリカの国内侵略を盲目的に認めることから
戦後の日本左翼は議論を組み立ててきているのだから
端からお話しにならない

もちろん
完膚なきまでにアメリカの軍事力に敗北を喫した
極東列島の残存人たちが
どこから復活のための思考をまともに始めるか
始め得るか
そのあたりで面喰ったまま未だに眩暈の中に居続けているのだから
シラフのようには扱わないでくれ
どこを強調するかの違いで
左翼になったり
右翼になったりしただけのことで
あんまり虐めないでくれよ
やっぱり大戦の敗北は決定的だったんだよと
言い続けながら
右翼だの左翼だのという陣営に加わって
とりあえずの分け前に与って糊口の道を維持したいという
わびしい思いはわからないでもないが
そろそろ限界に来ているじゃないか
やっぱりアメリカとの戦いを避けようもないところまで
1945年時点にも況して
日本人の魂は追い詰められてきているではないか
個々人の命を誤魔化し誤魔化しなんとか維持していこうとした結果
こんなにでたらめな国になってしまったではないか
国民の稼ぎはアメリカに吸い上げられ
嘘八百を並べる21世紀バチスタ政権によって
この列島はすっかり下請け小国家にされ切ってしまっている

こういったことを
フザケた現代詩ふうの言辞を並べ続けながら
いやいや
アベセーケン下ふうの言辞と言っておこうか
むかしスタンダールが『赤と黒』を1830年の年代記と記し
冒頭に1827年に書かれたとしっかり明記しておいたような歴史意識
政治意識程度には
ビンビンと鋭い認識や感覚であらゆる単語を並べ続けて
きているんだけどね
ひさしぶりに洩らしながら

すっかり忘れていたとでも思うか
わたくしの専門はフランス革命から
ルイ18世の王政復古時期の
どうにもならない下らない政治過程の日々刻々の
状況推移の再見にあり
もちろん花よ蝶よという言辞を弄するのなど
カモフラージュにすぎないことを

よくもまぁ
韜晦とカモフラージュを長々と続けてきたものと我ながら感心する
タレーラン先生やメッテルニヒ先生を師と仰いでいる以上
裏ではいろいろな工作をし続けてもおるのでね
おっと
リシュリュー先生や
カロンヌ先生
ドゴール先生あたりも
今日は珍しく数え上げておこう
すべては政治であり
権力闘争であり
この世ばかりか
人間の意識界はミクロ+マクロ権力の終わりなき闘争である
と注記しておくために

とはいえ
ヴァージニア・ウルフの『作家の日記』は面白く
このあいだの夕方散歩途中で神楽坂のLe Kaguに寄った時に
日本語訳をうっかり買いたくなったが
どうせなら英語で読んだほうがいいだろうと思い
その場でKindleを調べたらちゃんとあったが
帰宅してKoboを調べたらもっといろいろあって
みすず書房の翻訳本は4400円ほどしたが
Koboの英語版では最安値のものは125円だったので
どうしたってこちらで買うべきだろうと結論

本が売れなくなるわけさ
差が大き過ぎる

とはいえ
神谷美恵子の訳はよかったけれどね
彼女は1979年に65歳で亡くなった
戦時中の東大病院精神科を支えた3人の医師のうちのひとりだそう
4000円以上出して
わざわざ翻訳で読む価値もあるかもしれない
翻訳は訳者の言葉を読むことであり
訳者の息づかいや体温を読むことであり
つまりは訳者のからだに触れ続けることだから



2018年2月27日火曜日

ぽっと出の宇宙人



認めない
言うことで
なにごとかできるとでも思っているかのようなひともいて
こっけい

認めない
言いたくなる対象が
そこにある
ことから
なんであれ
はじめるのは
もう
幼児の頃に
身につけている振舞いかたの
はず

ぽっと出の
宇宙人
かしらん




飽きる



感心してしまうほど
年がら年中
グチ
不平
不満
批判
批難
なひとがいる
ほんとうにいる

飽きる



深夜



深夜
むこうの部屋では
時計の音が響いている

深夜
こちらの部屋では
耳に大気の音が染みてくる

深夜
この家にない部屋では
無人が無音を無聴している




ことばはおもしろい

  
      人生という名の生きそこない
      ジル・ドゥルーズ


ことばはおもしろい

なにか言おうとすれば
言うつもりもなかったことを
ことばは映写してしまうし

たいていのひとが
一生にたったいちどさえ
うまく使えなかったりする

うまく正しく使えている
と信じているひとはみな
決まって鼻持ちならないやつ

ことばはおもしろい




 
インターネットの網の目が繁茂して
猫も杓子もSNSで
なんともエネルギッシュに
昼夜休みなく
今日あった楽しかったことや
むかついたことや
政治批判や
戦争の悲惨への怒りや
誰それへの批判や非難や讃辞をまき散らしたり
どうでもいいようなことでもずいぶん工夫して写真に撮って
インスタ映えとやらを気にしてアップしたり

自己顕示
とそれらすべてを呼んで
かたづけるのは
まァ
ふつう

けれども
あれこれ見続けるうち
それらは
けっきょく
じゃないのかと
ぼくには思えてきた

思い
という植物は
条件さえ見つかれば
手段さえ整えば
あちこちに
を咲かせようと
たぶん
する

だから
無償なのだ
ほとんどのSNSの花々は
咲くのが
本能だから

そう思うようになってからは
自然の花も
昆虫も
魚介類も
鳥類も
岩や水辺の風景さえも
インスタ映え
狙ってるな
見えるようになってしまった



消しゴム

じつを言えば
けっこう
消しゴム好きである

齧ってみたりする

指の腹で
きゅるきゅるしたり
親指と人差し指で
ぎゅぅ
とつよく押してみたりもする

使っているうちに
かたちが変わっていくのが
きらい

だから
なるべく使わない

ビニールの包装紙に
包まれていたりする時には
それも
剥がしたくない

愛してる
のかもしれない



思いとか心とか



心というものついて
四六時中ひとはうずうずと語っているが
はたして
心というべきか
思いというべきか
むずかしい

思想とか思考ということばも
迷いもなく力まかせに打つメンコみたいに
ずいぶんバシッと使われることが多いが
たいていの場合は
思い
と呼んでおくぐらいでいいんじゃないか
と感じる

マルクスの思い
とか
ハイデガーの思い
とか
トマス・アクィナスの思い
とか
西田幾太郎の思い
とか

そんな感じで
十分じゃないかと
思う

マルクスの心
とか
いうと
たちまちアヤシクなってくるから
思い
でいいんじゃないかな
と思う

だいたい
人間の精神現象は
いろいろな
思い
の束のからまりでできていて
それらが
おなじ意識の中の
別の束と衝突したり
精神電流のショートや断絶を起こしたりすると
肉体の血流状態に影響を与える
そんな影響を
と呼んでいるように感じる

心は
だから
なかば肉体的なもので
思いと肉体のあいだに発生する
熱や
温度のようなもの

べつの見方も
定義のしかたもあるだろうし
あっていいと思うが

とにかく

心とか
思いとか
こんな基礎中の基礎の用語さえ
よく定めずに
平気で生きてきているのが
人間という
とんでもないもの



今は知っている



積極的にどこかへ旅に出ようとは
もう思わないし
さほどの用事もないのにどこかへ赴こうとも
思わなくなった

しかたなしに出かけなければならないことは
あいもかわらずあまりに多いままなので
出かけないのでもなく
不活発になったのでもない

忙しく電車を乗り継いだり
舗道や階段を足ばやに過ぎて行きながら
もうどこにも行きたくないなぁ
出かけたくもないなぁと思っている

京都に向かう新幹線に乗っていながら
長い移動にはすっかり興味を失ったと思っている
パリに向かう旅客機に乗り込みながら
遠い外国なんかこりごりだと嘆息している

そういえば
もう
あまり嘆くこともなくなったし
しなくなったし

ボードレールさんのように
此処でないならどこへでも!*
などと息巻いて
何ごとが言い得た気にももうならない

此処が此処として特定されているなどとは
もう思わなくなってしまったし
他所だの新たななにかだの変貌だの新生だのさえも
此処には流れ込んでくると今は知っている



*「この世の外ならどこへでも!」 in ボードレール『パリの憂鬱』




此処と此処でないところ



大通りの近くに住んでみると
街を通り過ぎていく自動車の音が
深夜でも聞こえ続けている

それもなかなか
いいものだということは
実際 住んでみないとわからない

そこからちからが
与えられるように感じるのだから
わかったものではない なにがいいかなど

本当に人里離れたところに住むのにも
たぶん予想外のいいことがあろう
なにも聞こえない昼夜には気の音が響くだろう

こんなふうに思うのだから
大きな街中に住むのは山林に住むことに繋がる
ひとはいつも此処と此処でないところを持つ




古くなってきたスポンジ



食器洗いのスポンジも
古くなってくると
いろいろとひねりが残るようになり
なかなかの
エロス

腰のくぼみや
胴の
厚みの違いもあって

贅肉らしきものも
浮かび出て



2018年2月26日月曜日

変身とてんぷら

 
変身を
渇望していた人がいたが
いっしょに
てんぷら
食べたことがある

真夏に
なる前だった

その時期の
てんぷら
うまいと思うんだよ

型通りに
ビールなんか注文し
てんぷらで
飲んだけれど

てんぷらには
ビールより
もっと
合う飲み物があると思い
しばらく
気にかかった

おっ!
キンキンに冷やした
ストレートの
ウォッカなんかのほうが
合うな
てんぷらには

そう気づいたのは
変身渇望さんと
あまり
会わなくなっちゃった頃

あんな渇望
たぶん
棄てちゃったと思うよ
あの人

それこそ
変身じゃないか
って
ことに
なるかも
しれん



おなじ距離というわけではない



そういえば
ポトスに
だいぶ
水をやってないなぁ

じぶんがいる
机から
1メートル半くらいの
棚に
置いてあるんだが

1メートル半といっても
どの
1メートル半も
おなじ距離
というわけではないから

そうとう
遠い
遠い
遠い
遠距離の
1メートル半
だったわけか

この
ポトス
までの場
合は



深まるるりるり


 
ひらがなばかり
詩集を
ひさしぶりに手にとって
るりるりと
目で追ってみたが
ひらがなの
るりるり加減に
ちょっと
目が
るりるり
したぐらいで
内容が
まったく
ピンと来ず
すぐに
書店の書架に
戻してしまったが
無性に
漢字が見たくなって
けれども
漢字で埋め尽くされた本が
その書店には
見当たらず
もう
るりるり
るりるり
深まる
るりるり



2018年2月23日金曜日

ですですです と でで

 
きょうのスゥイーツは
超甘酸っぱく味付けした
極薄の酢豚肉に
たっぷりのホイップクリーム乗せ
です
です
です

あらゆる倫理の埃を取り除かねばならぬが
古池があると
飛び込みたくなる古風なやつが
まだ
われわれの中にはおる

もちっと
苦行してこい
シリアのGhoutaみたいな
楽園に行けばどうにかなるなどと
思ってはいかんぞ

スゥイーツの後は
ひさしぶり
カミュのストレートで〆ました

『カリギュラ』あたりを
ひさしぶり
詠み返したくなっちゃったよ


だれに憑依してもいい

 

ぼくの場合
だれに憑依してもいい

一個
よく使う肉体を持ってるけどね
時間的には「現代」に
場所的には「秋津島」に

でも
他の時間のどこでも
調達
すぐできる

言語だって
すぐ
べつのを使える

言語以外の
波動物だって
いろいろ
あるし


ここで
粘膜にじかに触れるようなもののイメージを
ちょんと
差し入れるのが
コツ

しぼりたてのマンゴーに
ぽつんぽつん
完熟桃の7ミリ四方の果肉を
ふんだんに入れたジュース
とか

千代田牛の
まったくもたれない
とろとろ肉の
4ミリ厚と6ミリ厚の
さっと焼きステーキ
とか

お酒は
飲むたびにアルコール度が変化する
青山地区
シャトー・タマキンの
TOKYO・SAIGONOHIBI
とか

ぼくの場合
だれに憑依してもいい

ほんと