長年の友に
読みようによっては別離状とも受け取られそうなものを
送ったばかりなのである
数十年
こちらからの手紙には数か月後の返信
場合によっては
年にクリスマスカード程度
すぐに返信してほしいとまではいかずとも
話題への反応が三か月も六カ月も経ってから来るようでは
ようするに友とはいえない
それを友であるかのように扱ってきたのは
たんに外国人だからで
そこには何かの時に役立つかもしれないとの
こちらの計算もあった
ようするに
いよいよ友とはいえない
ほそぼそながらも
長年のやりとりを続けてきた懐かしみのようなものは
たしかにあるにはあった
時には時間をずいぶんかけて
むこうの言葉で
事細かに手紙をシタタメたりしてきたが
返ってくるのは型に嵌った挨拶文句程度で
ちょっと冷静に見直せば
どうみても友とはいえない
もう若くはないとなってくれば
長年のむこうの反応のいい加減さは
ずいぶん大きな不愉快事となってのしかかって来る
まじめに考えてもしかたないので
だんだんこちらも紋切り型の文句でカードを送る程度になっていく
それが十年も続くと
この関係っていうのはなんだろうかと思う
日本でのただの年賀状つながりのようなもので
相手にとってこちらが大事でないのはとうに明白だが
こちらにとってもかつての一時期の思い出のよすが以上のものでは ない
昔はずいぶんと美人で
会いに行くのに若い時代の労力も金銭もずいぶん浪費したが
むこうに娘もふたりでき
仕事も持って田舎に定住し中年になってみれば
たまに訪ねていく時の便利な宿舎のおばさんでしかなくなる
それはそれでかまわないが
その国の中でもとりわけ辺鄙な場所だとなれば
首都からそこへ行くのは東京から長野の奥地に行くようなもので
それだけの時間と運賃をかけていく価値があるかといえば
そんなものはどう考えてもまったくない
じゃあ首都に出てきてくれさえすれば会えると書き送っても
首都の非人間的な雑踏は耐えられないとかいうので
ようするにこちらから下って行くしかないことになるが
必要もなければ金も時間もかかる外国の田舎旅など
もうやっている暇はこちらにはないのだとなれば
今生での再会などもうどうでもよいと見切っておくのが
まぁ生きる上での知恵ということにはなる
若い頃は友というものも友という概念も
ひと一倍大事に考えていろいろと苦労もし続けてきたが
ほとんど消えてしまった
というより
ひとりももう残っていないあの頃の“友”とやらを思い出すと
ちゃんと連絡を取り合うとか
小さな約束をちゃんと守るとか
その程度のことからして守ることのできなかった
どれもろくな人間ではなかったことが
いまになるとありありとわかる
そういう人間たちがまわりから完全消滅していったのは
考えてみれば寿ぐべきことだが
もっとはやくに消えていってくれれば
人生時間はもっと無駄にしないで済んだことだろう
いわゆる飲み仲間のような人間たちは
後から後から現われ続け
不足はしないが
そういう人たちを友となど呼びもせず認識もせず
どんどん入れ替わって行くだけの
その場その場の風景と見ることができるようになってみると
友
というものを大事にしたがる若い時代というのは
あれはあれで一種の病の時期かと思う
いつどこで飲もうか
などと約束しあう間柄では
When・whereの共有だけは重要な関係線で
人間どうしの関係では
ようするにこれだけちゃんとしていれば十分なのである
たったこれだけのことさえ
昔の友たちの間ではろくに守られたことがなかった
そんな程度の人間たちを
友
などと
御大層に大事にして
要らぬ苦労を背負った貧しい青年時代だったと
あの若かった頃のすべてを反古のように心の中で破り捨てながら
人目には見えない総括をしている
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