もうあなたの表情の輪郭もうすれて
ぼくはぼくの岸辺で
生きていくだけ…それだけ…
松本隆『カナリア諸島にて』
どうにもお腹がすいてたまらなかった日
藤埼のほうに行って
海岸の岩場づたいに歩いてみた
岩のすきまにコーラ瓶があったり
古いサンダルがひっくり返っていたり
海藻の根っこがこんがらがって挟まっていたり
そんなのを見ながら
どうにも今日は
お腹がすいてたまらないと思っていた
岩場が急に切断され
陸から川が流れ出ているところに来て
しかたがないので道路に出て
橋を渡ってさらにむこうの海づたいに歩いて行く
海岸に降り直すと
どうしたのか岩場は終わってしまっていて
こんどはずっと砂浜が続いている
岩を取り去って整地し砂浜にしたのだろうか
砂浜ぞいに歩き続けていく
お腹がすいてたまらないと思っている
その日から数えて八か月後に結婚することになった
芳賀美智子と出会ったのはこの砂浜ぞいで
お腹がすいてたまらないと思っているぼくと
芳賀美智子は砂浜の上でまだ夕方にならない頃
しかし風は海風にとうに変わり強まり出し
髪を陸のほうに絶えず靡かせ始めた頃のことだった
ぼくと美智子は国内ばかりか世界を転々とし
子供三人を作って事業もいくつか起こし
53年をほゞ仲睦まじく暮らして老いていった
美智子は87歳でクレタ島で静かに息を引き取った
ぼくはその後開発されたばかりの若返り手術で
うまいぐあいに成功を収め20代の細胞や血液を取り戻し
かつて美智子と会った藤埼海岸を再訪しに来て
ささやかに懐旧の情に浸りながらそぞろ歩きしていると
むこうから美智子とはまったく違う長い髪の女が来て
なんという弾けるような輝きを帯びた女かと感嘆していると
あなたOO病院のお庭にいらしたようでしたが…と
話かけてきたのがきっかけになって近くのレストランへ行き
その後の経緯の詳細はあまりに込み入っているので省くが
これが結婚することになった相手である古賀美音子で
先に式場に着いて待っているぼくのほうへ手をあのように
振って今こちらへ向かってくるこの女の様子を見ながら
かつて似たようなところもある名前の女と暮らしたような
気もするがもうその名もはっきりとは思い出せないし
名前も顔立ちも雰囲気も浮かび上がってはこないのだから
独身時代に心に巣食った異性の幻想かなにかの
曖昧で漠然とした物語じみた何ものかだったのだろう…
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