俗人猶愛するは未だ詩と為さず
陸游
思うゆえにある我
なんて
たいしたものじゃない
重要なものじゃない
でも哲学はそう言っているって?
いやいや
フェリックス・ガタリは
とうの昔にこう言っているさ
「コギト以外の存在の仕方は意識の外に基礎を置く
あるいは
「〈ひと〉は否応なく非・人称であり前-人称である
さあ
結局はいつも
通俗言語による新哲学の周知装置である詩歌さんよ
いつまで
思うゆえにある我の
喜怒哀楽だの
その棲み処の〈社会〉だの〈世の中〉だの〈この世〉だのの
憂鬱さやちょっとの晴れ間の記述に
囚われているんだい?
あるいは
数千年変わらぬ
あいかわらずの嘆き節作りに?
それが伝統だからかい?
それが詩歌の宿命的な流儀だからかい?
それが…?
それが…?
それが…?
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