2018年1月31日水曜日

こんなところで止まってしまうわけにはいかないのである


ヨーロッパの特質を自由
アジアの特質を隷属
として
ヘロドトスが『歴史』を書いたといえば
ヨーロッパの自由を称揚する方向に誘導されてしまいがちだが
もちろん古代ギリシアの自由民は
実生活のあらゆる面を奴隷によって支えられていて
奴隷たちはアジアから供給されていたから
ヨーロッパ的自由を
安易に優位において人間社会を見ていけばいいというわけではない

ギリシア人以外の文化をバルバロイ(異邦人)とは呼びながらも
ヘロドトスなどは
たとえばエジプトの文化に深い敬意を払い
ギリシアの宗教や神々はエジプトから受け継いだと語ったが
プルタルコスなどになると
「夷狄文化に同情し過ぎている」とヘロドトスを批判するようになる

アリストテレスまで来ると
もう目も当てられない
歴史の本で偶然に目にでもしないと
なかなか出会えない書簡などには
とんでもない差別がしっかりと織り込まれている
家庭教師となって教えたアレクサンドロスが
ペルシア遠征に旅立つ際に送った手紙にはこうある
「ギリシア人には友に対するように
「アジアの異民族には動植物を扱うように
これがヨーロッパ哲学のシステム上の始祖の考えで
アリストテレスを大先生と戴く後の時代の思想家たちや政治家たち
どうなっていくかは火を見るより明らか
当時のギリシアでは奴隷をアンドラポダと呼び
これは人の足という意味で
四本足の羊や牛に対して
人の足を持った家畜という認識があった
アリストテレスの『政治学』は奴隷制度を支える論理の書でもあり
奴隷所有者については
「心の働きによって予見することのできる者は生来の支配者、
「生来の主人であるが
奴隷については
他の人が予見したことを肉体の労働によって為すことのできる者は
「被支配者であり、
「生来の奴隷である
と言い
「だから主人と奴隷とは同一のことのためになるのである
と結論するに至る
なんだかわが多島海の現政権にお勧めしたくなるような論理ではないか
しかも
「完全な家は奴隷と自由人とからできている
のであり
エコノミーの語源を構成するecoはギリシア語のoikos
家や家庭や家計を表わすのを思い出せば
完全な経済は奴隷と自由人とからできている
となり
奴隷としての低賃金層や非正規被雇用者の供給を高めなければならんね
となり
そればかりか現代においてもやはり
完全な家は奴隷と自由人とからできている
ということになるはずで
“名もなき家事”だの
たいていは妻や母への家事の片寄りだのは
アリストテレス先生によって太鼓判を押された
いとも喜ばしきシステムということになる

こんなことを再発見して
アタマに来たり
絶望したりしているようでは
せっかくアリストテレス先生を繙き直した甲斐がない
ついでに
「アジア人はヨーロッパ人に比べ
「その性格が本性上いっそう奴隷的であるため
「主人的支配を少しも不満に思わないで耐え忍んでいる
とおしゃっているのも見ておけば
アジア人の我々
得難い貴重なご意見を戴き直したことにもなろうというもの

おのれ
アジア人蔑視をしてやがる!
などと早合点せずに
「人間は自然に国的動物であり
「また偶然によってではなく
「自然によって国をなさぬものは
「劣悪な人間であるか
「あるいは人間より優れた者であるかの
「いずれかである
というお言葉もついでに見直しておくと
なるほど
なるほど
大御神に自然と頭を垂れる心性にも容易に通じ
八紘一宇にも容易に通じ
万国の労働者よ団結せよ!にも
やはり容易に通じる論理が引き出せるわけで

ここはちょっと
小林秀雄ふうにしみじみした言い方をしてみれば
「わかる者にはわかるであらう
「人間といふものに対するアリストテレスの絶望は
「いかにも深かつたのである
「これほどの絶望を現代人はとうに失つてしまひ
「アリストテレスのかうした発言に
「いかにも浅く表層的な差別思想を読み取つてあげつらひ
「人間といふものへの凝視を平然と蔑ろにした
「議論ともいへないやうな空疎な言葉を
「性凝りもなくまた重ねていくばかりであらう
とでもいうことに
なりましょうか

もちろん
こんな述懐で短文を結んで
原稿料を取れていられる古の評論家とは違う人々は
こんなところで
止まってしまうわけにはいかないのである



すでに壇ノ浦に居て今宵も月や星が


数字や構造は至極具体的なもので
じつは生身の生活にびんびんと関わってくる
学校でもそう習う

2017年の出生数が94万1000人程度で
2017年の死亡数が134万4000人程度
というのを見ていると
40万人が昨年一年で日本という空間から消滅したのかと
意識の中ではありありと感じる
しかも減少ペースは加速しているから
2018年や2019年には
消滅人口はさらに増えるはず

けれども
いつも人込みで溢れ返っている都市の駅から駅を往来していたりすると
なるほど実感は湧かないわけだ
大雪で駅から溢れた人々の中に紛れ込んでしまったりすれば
なんて人の多過ぎる都市だろう
とぶつぶつ言いたくもなる

毎年40万人以上が消滅していく国で
増益が見込めるのは葬儀業や終末介護製品業ぐらいかと想像するが
そうした業種の給与は低く抑えようという風潮が強いから
商売繁盛になったところで
そこからは金が社会に廻っていかない
所得の多い層は日本蔑視が徹底しているので
海外ブランドの購入に大枚をはたくから
金は海外へ吸い出されていく仕組みになっている
もちろん事態はもっと複雑だけれども
国内商品やサービスの消費にまわる金は低いままなのは確かだ
そうしながら毎年40万人以上が消滅していく

人口を増やすには
子供を産み育てたい若者たちに
数十年続く安定した収入と住居と健康を保証しなければならない
いかなる社会でも
若者はもちろん収入が低いし生活は不安定なので
そこはサービス機関である国家が支えなければならない
こんなあたり前のことを考えられず
なんの方策もとらなかった担当役人たちの
名前も全家族も公開して責任をとらせろとも思うが
そういうことができない国なので
すべて曖昧に
なおざりに
いい加減に
全国民を巻き込んで奈落へと転落していく

団塊ジュニア世代が出産年齢を過ぎたことで
これからの日本に人口が増える契機は完全に失われた
厖大な人数の団塊の世代はもう60歳最後から70歳台に入ってい
しかもこの世代は健康に悪い食生活を率先してやってきたから
彼らがすっかり消滅するまでこの先20年ほどは
健康保険の蓄積金はぐんぐんと消費されていく
人数がただ事でない彼らの介護を賄い得る人員も金ももう日本にはないから
これからの20年ほどは団塊の世代終焉戦争を呈するだろう
原発事故や原子炉の処理にかかる費用も神話的な量の増大の一途で
そこには水資源の海外売却や
高度成長期に造られたインフラの全体的な老朽化と劣化が加わる

自分の子ではなくても
各家庭がひとりは子供を世界から引き取って育てるように
法律で強制でもすれば少しは変わるだろうが
異質なものや他者への排外性が強い国民性が悪さをするだろう

まことにまことに
数字や構造は至極具体的なもので
じつは生身の生活にびんびんと関わってくる
学校でもそう習う
数字や構造をつらつら頭の中で思いめぐらしてみるだけでも
もう
日本は完全に詰んでしまっているが
時間という物理的な水流が
まだ
本当の滝壺に至るまでにもうしばらくある
それだけのことで
とりあえず
今は安泰だと思ってしまう
すでに壇ノ浦に居て
今宵も月や星が
海にちらちらと光を落とすのを見ながら
扇子で優雅に扇ぎながら
まさか
この海に一族郎党全員が沈むのだとは
想像もできないままでいる



このあたりの多島海にも


 
隷属によって社会を形成しようとする世界
それに対し
自由によって社会を形成しようとする世界

後者の自由世界の勝利

ヘロドトスが『歴史』に描いたのはこれだった
隷属世界は当時のアジア
自由世界はヨーロッパ

いまだに
第三次ペルシア戦争の教訓も浸透しない愚かな国もあるから
つらつらと
こんな古いことにまで遡って
思い出そうとしてしまう…

ペルシア王クセルクセスのもとに亡命したスパルタのデマラトスは
「ギリシアに隷従を強いるのは無理だ
「ギリシア人は自由を尊ぶから
とクセルクセス王に言った*

クセルクセス王は
「兵士たちが指揮者を恐れ
「その采配の下に隷従すれば軍隊は力を発揮するが
「兵士たちを自由放任にしておけば無理だろう
と答えた

自由
についてのクセルクセスの理解は
せいぜいが
規律もなにもない放縦程度のことで
ギリシアにすでに出現していた
自由民が自ら定めた法に基づいて国家を運営する
そうした自由というものを
まったく
理解できなかった

だから
デマラトスは続けてこう言うことになる
「ギリシャ人は自由であるとはいえ
「いかなる点においても自由であるわけではない
「彼らは法という主君を戴いている
「彼らはこれを怖れる
「殿の御家来が殿を怖れる以上に

せっかく
古代ギリシアの自由や法が
国力の礎として
憲法にも明記され
鮮やかに移植されたというのに
クセルクセス時代のアジアの隷属制に戻そうとする
異様な逆戻り人種たちが発生している

ペルシア戦争直後にアイスキュロスが描いた悲劇で**
ギリシア人たちが合唱するのは
「おおヘラスの子らよ!
「進め!
「祖国に自由を!
「子や妻に自由を!
「古い神々の御社や父らの墓地に自由を!
「すべてはこの一戦で決まる!

これに対し
ペルシア人側は
クセルクセス王の母アトッサに対し
「あなた様こそわれらの神のお妃様、
「われらの神の母君様におわします
と合唱する

クセルクセス王への隷従へ
アトッサへの帰依へ
ギリシア的自由をすっかり脱ぎ捨てて
自由民である重荷を剥ぎ取って
沈下していきたい
顔ナシたちが
うぞうぞ
うぞうぞと
このあたりの多島海にも
自縛霊している
憑依霊している
浮遊霊している




*ヘロドトス『歴史』第7巻、第101節以下。
**アイスキュロス『ペルシアの人々』



2018年1月29日月曜日

もう6500億光年ほど前のこと

 

世界というものへの
わたしほどの不活発は罪ではないのか
とも思う

ほゞすべてに熾烈な関心があって
四方八方に分裂し切っているためだと言えば
つまらない自己弁護に陥る

なのでそうは言わず
不活発と分裂と熾烈な世界関心とを併存させて
わたしの自我とすることにして黙った

もう
6500億光年ほど前のこと もし
わたしの記憶が確かならば



ぼく どうかしちゃってる


という漢字より

故郷
と呼ぶより
常郷

離れたわけでなく
居続けている

どこまで続くのかわからない
長い背の高い並木が
北にも南にも

はずれに古びた小屋があって
ぼくの家ではないが
きれいに隅ずみまで掃除をして
敷物を敷いて
ランプも火鉢も起き
板と角材で拵えたテーブルも据えた

そこで勤勉に読書するわけでもないが
テーブルに両肘をついて
目を閉じて夢想はする

今はその町の暦で8063年だが
きっと他の世界の暦もあって
他の数字が並んでいるのだろうと
今さっき
無想どころか
夢そのもののようなぼんやりした意識の中で
2018年1月29日という数字が
並んでいるのを見たところ

ぼく
どうかしちゃってる



2018年1月28日日曜日

マニフェストみたいだね


分かち書きで
それも
詩のかたちによく似たかたちで
文字を置いていこうとすれば
思いの中に湧き出て
意識のおもてに浮かび上がってくる単語のうちの
十分の一も使えない

十分の九は使うのをあきらめて
思いの流れの中にまたリリースし
手放していかねばならない
分かち書きという
形式というほどのものでもない形式が
要請してくるのは
そんなこと
詩のかたちに
よく似たかたちを使ってみるというだけで
強いられるふるまいは
そんなこと

その結果
できあがってくる
文字ならびを見直すと
じぶんの思いとはなんと懸け離れてしまっているか
としみじみ感じる
型式に強いられて並べられていった
文字のこれらのすがたは
さっきまでのじぶんにはとても予想もできなかった
奇っかいきわまる異様なもの
内容にいたっては
ふだんのじぶんの考えとは真逆の場合さえある
ひとりの人間の考えや感情の表現です
などとは
とてもではないが言えない
幾人もさまざまなキャラクターが出てきて演じる
舞台上のひとこまを切り取ったかのよう

ことばと形式に
人間がどこまで動かされ
流されてしまうものか
それを見続けているのです
と言えばいいか
ことばも文字も使わないに越したことはないのです
そんな教訓を学び続けているのです
と洩らせばいいか

そう言うと
すこししんみりしても来てしまうが
この分かち書き実験の現場は
いたって
さっぱりして
あっけらかんとしている
使うことばや
置いていく文字と
じぶんの思いや感情をすっかり切断してしまっているのだから
それもあたり前のこと

ひとがいろいろな色を装いやインテリアに使うように
装いのため
インテリアのため
その時どきの気まぐれで
ことばや文字を並べたり置いたりする
だれもがそんなふうに
ことばや文字を
ただのモザイク石として使えるようになる近未来に向かって
分かち書きの形式をまだまだ使いながら
文字使い
ことば使いの
思いや感情や心情との完全分離を
さらに推進していこうと
ぼくは思っています

なんだか
マニフェストみたいだね

もちろん
これも
ぼくの思念とは分離した上での
文字ならべ



気づき直させられてくる


曇り空と
ド・スタールを好んだ友を
思い出させられる
薄雲の幾重にも重なった
           空が
寒気のおかげで
東京の上にも現われ
ところどころには
        薄い水色の晴れ間も見えて
    見飽きない

   寒いものだから
   冬空…という言葉をうっかり思ってしまうが
   うっすらと陽が
下りてきているあたりもあって 
雲も雲のひかりもじつはやわらかく
春だ、もう…
      と
       気づき直させられてくる





宿命がぼくに読まれたがっている

 

ぼくの宿命が
ぼくによって読まれたがっている

だから
ぼくは読もうとしているだけだ
なにひとつ
自分からは踏み出さず
計画も企画もせず
まったき消極性そのものになりきって

宿命はじっとしていることができない
どんなに不変不動を装おうとも
ぼくほどの無為の前には
しびれを切らした足指を震わせたり
首の筋の一本の位置をずらしたりしてしまう

ぼくはぼくの宿命ではない
ぼくという波のすぐ内側まで満ちている海の水のすべて
それが宿命で
それに押され続けながら
ぼくという表面は海の水のすべてを知り尽くそうとしている



ことばを介してなら

 
たいへんな寒気が来ているからといって
寒さに驚いたり
嘆いたり
つらがったり
そんなことをするのが
もう
おもしろくない

それでも
ひとりで外を歩いていると
寒さに頬が
きりきりしてくるのを
けっこう
おもしろがって
さむいなきょうはさむいなきょうは…
などと
つぶやくように
ささやくように
うたくように
くちずさむように
ことばにしている時がある

ことばを介してなら
寒さに驚いたり
嘆いたり
つらがったり
そんなことをするのが
まだ
おもしろいのかもしれない

いよいよ
おもしろいのかもしれない



後になって思い出し直すために



思い出すべきことがいっぱいある
しかも
何度も何度も
角度を変えて思い出し直し
また
同じ角度から
もう一度
さらにもう一度
二度三度
思い出し直すべきことが
いっぱい

今なんて
とてもではないが
生きている暇は
ないくらい

しかし!
生きておかなければならないのだ!
この今も!

後になって
思い出し直すために
何度も何度も
二度も三度も



ひとつだけ誇らしいと思うのは



ひとつだけ
誇らしいと思うのは
徒党を組んで偉がろうとだけは
けっして
しなかったということ

表面だけ取り繕って
認めてもいない者たちを仲間として募って
おたがいに無理に褒めあい
まるで才能ある集団であるかのように
装おうとなどはしなかったこと

たいして認めてもおらず
おもしろくも思っていない年長者を
仰々しく盛りたてて
次の地位に滑り込ませてもらおうとは
一度もしなかったこと



朔太郎の記した言葉を借りてしまいながら



ふらんすへ行きたしと思へども
と朔太郎は書いたけれど
ふらんすへ
行きたいとなど
もう
思わないので
ぼくの旅は
はるかに
複雑
ぼくの
書くかもしれない詩は
はるかに
入りくんでくる

新しい背広を着ようとも思わないので
どこかへ
行くふりをするとなると
さあ
なにを着ていこうかと思案するが
きままなる旅にいでてみん
と朔太郎のように
呟いてみるのも
記してみるのも
わるくはない
わるくはないどころか
気持ちにあたたかく晴れ間ののぞくような
やわらかさ
うきうきさ

汽車が山に近づき
山あいを
谷の間近を行き
また
すこし離れて
遠い山なみの重なりまで
さまざまのことを
思い出すようにのぞむ時
みづいろの窓によりかかって
われひとりうれしきことをおもはむ
という
朔太郎の口吻を思い出しながら
ぼくもひとり
ぼくに
ぼくにだけ
うれしいことを思おう

五月の朝のしののめ
うら若草のもえいづる心まかせに
ここはすっかり
朔太郎の
記した言葉を
借りてしまいながら