ヨーロッパの特質を自由
アジアの特質を隷属
として
ヘロドトスが『歴史』を書いたといえば
ヨーロッパの自由を称揚する方向に誘導されてしまいがちだが
もちろん古代ギリシアの自由民は
実生活のあらゆる面を奴隷によって支えられていて
奴隷たちはアジアから供給されていたから
ヨーロッパ的自由を
安易に優位において人間社会を見ていけばいいというわけではない
ギリシア人以外の文化をバルバロイ(異邦人)とは呼びながらも
ヘロドトスなどは
たとえばエジプトの文化に深い敬意を払い
ギリシアの宗教や神々はエジプトから受け継いだと語ったが
プルタルコスなどになると
「夷狄文化に同情し過ぎている」 とヘロドトスを批判するようになる
アリストテレスまで来ると
もう目も当てられない
歴史の本で偶然に目にでもしないと
なかなか出会えない書簡などには
とんでもない差別がしっかりと織り込まれている
家庭教師となって教えたアレクサンドロスが
ペルシア遠征に旅立つ際に送った手紙にはこうある
「ギリシア人には友に対するように
「アジアの異民族には動植物を扱うように
これがヨーロッパ哲学のシステム上の始祖の考えで
アリストテレスを大先生と戴く後の時代の思想家たちや政治家たち が
どうなっていくかは火を見るより明らか
当時のギリシアでは奴隷をアンドラポダと呼び
これは人の足という意味で
四本足の羊や牛に対して
人の足を持った家畜という認識があった
アリストテレスの『政治学』は奴隷制度を支える論理の書でもあり
奴隷所有者については
「心の働きによって予見することのできる者は生来の支配者、
「生来の主人であるが
奴隷については
「 他の人が予見したことを肉体の労働によって為すことのできる者は
「被支配者であり、
「生来の奴隷である
と言い
「だから主人と奴隷とは同一のことのためになるのである
と結論するに至る
なんだかわが多島海の現政権にお勧めしたくなるような論理ではな いか
しかも
「完全な家は奴隷と自由人とからできている
のであり
エコノミーの語源を構成するecoはギリシア語のoikosで
家や家庭や家計を表わすのを思い出せば
完全な経済は奴隷と自由人とからできている
となり
奴隷としての低賃金層や非正規被雇用者の供給を高めなければならんね
となり
奴隷としての低賃金層や非正規被雇用者の供給を高めなければならんね
となり
そればかりか現代においてもやはり
完全な家は奴隷と自由人とからできている
ということになるはずで
“名もなき家事”だの
たいていは妻や母への家事の片寄りだのは
アリストテレス先生によって太鼓判を押された
いとも喜ばしきシステムということになる
こんなことを再発見して
アタマに来たり
絶望したりしているようでは
せっかくアリストテレス先生を繙き直した甲斐がない
ついでに
「アジア人はヨーロッパ人に比べ
「その性格が本性上いっそう奴隷的であるため
「主人的支配を少しも不満に思わないで耐え忍んでいる
とおしゃっているのも見ておけば
アジア人の我々
得難い貴重なご意見を戴き直したことにもなろうというもの
おのれ
アジア人蔑視をしてやがる!
などと早合点せずに
「人間は自然に国的動物であり
「また偶然によってではなく
「自然によって国をなさぬものは
「劣悪な人間であるか
「あるいは人間より優れた者であるかの
「いずれかである
というお言葉もついでに見直しておくと
なるほど
なるほど
大御神に自然と頭を垂れる心性にも容易に通じ
八紘一宇にも容易に通じ
万国の労働者よ団結せよ!にも
やはり容易に通じる論理が引き出せるわけで
ここはちょっと
小林秀雄ふうにしみじみした言い方をしてみれば
「わかる者にはわかるであらう
「人間といふものに対するアリストテレスの絶望は
「いかにも深かつたのである
「これほどの絶望を現代人はとうに失つてしまひ
「アリストテレスのかうした発言に
「いかにも浅く表層的な差別思想を読み取つてあげつらひ
「人間といふものへの凝視を平然と蔑ろにした
「議論ともいへないやうな空疎な言葉を
「性凝りもなくまた重ねていくばかりであらう
とでもいうことに
なりましょうか
の
もちろん
こんな述懐で短文を結んで
原稿料を取れていられる古の評論家とは違う人々は
こんなところで
止まってしまうわけにはいかないのである