2018年1月12日金曜日

コヘレトの言葉

       「見よ、これこそ新しい、と言ってみても
それもまた、永遠の昔からあり
この時代の前にもあった」
コヘレトの言葉


どこで耳にしたのだったか…
詩が政治に関わってはいけないから、などという
あれは誰だったか、
詩人の話を傍で聞いていたことがある

これだから
戦後の日本詩すべては根源からダメなんだな、と思ったのは
わたしがヴィクトル・ユゴーだけを指針としてきたから
若い時のデヴューから
ユゴーははっきりと政治詩人で
ナポレオン3世と衝突した時には
とりわけ顕著に政治詩を量産していた
19世紀最大の国際的詩人ユゴーの政治詩活動を無視すれば
立憲的自由主義プロパガンダのメディアたる近代詩の把握は不可能になるが
近代日本で詩に吹き寄せられていく文弱たちは
思想にも弱ければ政治論にも弱く
もちろん党派的闘争にも弱すぎるので
政治に弾き飛ばされた象徴派以降のヨーロッパ詩人たちの真似をす
さらにその後のシュールレアリスム詩人たちをも真似る
とはいえもちろん
シュールレアリスムは共産革命に並走していて
セクト主義の最たるもので
ブルトンに抵抗して多くの詩人や芸術家たちが離脱したが
そんなところをちゃんと眺めるのさえ日本詩人は苦手で
あたかも政治や共同体の軋みからいつも逃れていられるかのように
花よ蝶よの言葉並べや
あるいは古典や仏典や民俗学の雰囲気に擦り寄りながらの
感傷的なアマチュア老人ぶりの詩作をして
同好の文弱たちとしょぼい居酒屋で安酒を啜っていたりする

もちろん
政治のあれこれに取材して分かち書きにしてみたところで
面白みが古びるのはおそろしく速く
数百年も経てみればドービニェの宗教戦争詩のように
資料的価値も出てくるだろうが
数十年や百年程度のスケールの中では
忘却の河の底にいったんは沈められるだろう
政治や社会と個との関わりを詩にするとなれば
昔の中国の詩人たちが模範として甦ってくることになるが
あれらはどれも見事な出来ぐあいで
現代の日本語での創作があれを楽に超えられるとも思えない
ならば今
やっぱり日本語の詩による政治の扱いは避けるべきか
そうかもしれない
政治嫌いのお仲間にだけ向けるつもりならば

そうして

たびたび開く旧約聖書の
ソロモンについて語ろうとも
ダヴィデついて語ろうとも
じつは全編政治詩の集積に過ぎないあの厖大な文字数の中に
コヘレトの
たとえば

 「昔のことに心を留めるものはない。
   これから先にあることも
     その後の世にはだれも心に留めはしまい」

とあるのを読み直すと
これは詩心に触れてくるのか
それとも箴言心にこそ触れてくるのか
ユゴーの詩編の中に探したいものが凝縮して
ここにはあるかのように感じられる

   「この地上には空しいことが起こる。
    善人でありながら悪人の業の報いを受ける者があり
    悪人でありながら善人の業の報いを受ける者がある」

  「空しい人生の日々に
    わたしはすべてを見極めた。
    善人がその善ゆえに滅びることもあり
    悪人がその悪のゆえに長らえることもある。
    善人すぎるな、賢すぎるな
   どうして滅びてよかろう。
   悪事をすごすな、愚かすぎるな
   どうして時も来ないのに死んでよかろう」

などと
古い時代というのになんと透徹した悟り

   「生きている間、人の心は悪に満ち、
    思いは狂っていて、その後は死ぬだけだということ」
   「わたしは知恵を深めてこの地上に起こることを見極めようと心を尽し、
    昼も夜も眠らずに努め、神のすべての業を観察した。
    まことに、太陽の下に起こるすべてのことを悟ることは、
    人間にはできない。
    人間がどんなに労苦し追求しても、悟ることはできず、
    賢者がそれを知ったと言おうとも、彼も悟ってはいない」

旧約聖書を座右に置いていると
近代から現代の日本の詩歌も散文も不要になる
はっきりそう断言するわたしは
求めているものがやはり違うからだろうが
まあ
そんなこともどうでもよい
近現代日本文学は聖書には負けたままだとしっかり認識しておくの
やがて
出来あがってくるかもしれない新たな聖書を
日本語オリジナルで準備することに繋がっていくかもしれないから

   「愚者は口数が多い。
    未来のことはだれにも分からない。
    死後どうなるのか、誰が教えてくれよう。
    愚者は労苦してみたところで疲れるだけだ。
    都に行く道さえ知らないのだから」

   「それらよりもなお、わが子よ、心せよ。
    書物はいくら記してもきりがない。
    学びすぎれば体が疲れる。
    すべてに耳を傾けて得た結論」

コヘレトよ、
おっしゃる通り
時間つぶしや
意識というもののチマチマした慰撫のため以外で
本を読むのはむなしい
ましてや
文字を記すのはむなしい
記した文字を
自意識の墓標とでもするためにか
みずから本にして世に播くのもむなしいし醜い
おしゃべりはむなしい
古来の他人の拵えものである言葉を使って
何ごとかを考えてどこかの結論に至ろうとすることもむなしい

   「太陽の下、人は労苦するが
    すべての労苦は何になろう。
    一代過ぎればまた一代が起こり
    永遠に耐えるのは大地。
    日は昇り、日は沈み
    あえぎ戻り、また昇る。
    風は三波に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き
    風はただ巡りつつ、吹き続ける。
    川はみな海に注ぐが海は満ちることなく
    どの川も、繰り返しその道程を流れる」

  
*「コヘレトの言葉」の翻訳は新共同訳聖書1987による。




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