最近
ひとに安住するひとがまわりにも多くなってしまったようで
ひとごとでない
そもそもひとはひとではなくって
なんだかわからないもののままであるはずなのに
ひとという枠にスポッと嵌まって
ちょうどいいような感覚に陥るひとがいるのは
ありゃ
言語道断でも由々しきもんだいでもあるにゃ
にゃ
とうっかり付けたが
これは「だ」の意味だろうから
品詞で言ったら助動詞ということになるかもしれないが
助動詞なら活用ができるはずで
じゃあ
に・に・にゃら・にゃら・にゃら・にゃ
みたいに変化するのかというと
どうもいつも
にゃ
で間に合っちゃうようなので
やっぱり助詞かな?
終助詞?
ううううむ
また言葉の話にそれそうだったにゃ
戻るにゃ
にゃ
とか付けると
猫?
とすぐワンパターンな認識で理解しようとするのが
近頃のニッポンジンの悪い癖であるにゃ
だいたい
猫は
にゃ
なんて言わない
それっぽく言っているようでも
いわく言い難い
なんともビミョーな音を出しておる
にゃ=猫
という連想は
あくまで日本語のまわりにモワッと立ち込めている固定的共同幻想 で
真の猫の「にゃ」っぽい音とは違う
ということは
いくら「にゃ」を連発したところで
われわれは猫には成れないのであって
これもまたなんとも由々しき事態ではないか、諸君!
と
ここらでまた
話の道筋を戻そうとするのであるが
というのも
猫になりうるかどうか
などという個別形態への変身可能性だけが
問題だったわけではなく
ひとに安住するひとがまわりにも多くなってしまったことや
そもそもひとはひとではなくって
なんだかわからないもののままであるはずなのに
ひとという枠にスポッと嵌まって
ちょうどいいような感覚に陥るひとがいることだったりしたのが
問題だったのだから
そちらに戻そうとするわけなのである
しかし
あれだにゃあ
にゃ
なんかに嵌って
すぐに自己猫化妄想に陥って
気持ちいいような感覚になってしまうのも
まるで憑依霊が
ひとや
ひとがたに
スポッと嵌まって安らぐみたいなところがあって
思念だとか感情だとかいうものの
本質から来る現象かもしれないなあ
それならまだしも
ひとのかたちに嵌って安住していたほうが
やたらに猫や
かわうそなんかに嵌られるよりは
世の中が静かかもしれない
と
ちょっと考えてみて
こういうのも
なんか
同じだなあと思えるのだにゃ
考えとか
言葉なんてものも
物質で
…ってことは
ひとがた
みたいなもので
もともと定まったかたちなどない
われわれという根源的憑依霊が
とにかく
猫が小箱に嵌り込みたがるように
その場その場で
考えとか
言葉にも嵌り込んで
つかの間の安住感を得ようとするような
そんなものだろうなあ
と
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