ばかはこだわる
ほんとに
いろんなことにこだわる
ばかだよねぇ
と思うが
ばかだからしょうがない
こだわりは
ばかのアイデンティティ
こだわらなくなったら
ばかでさえ
いられなくなる
で
こだわる
ばかはこだわる
こだわるべきことなんて
この世に
そんなにたくさんはないんだから
どうでもいいのに
って思うが
こだわる
からだだって
性格だって
主義主張だって
考え方だって
だいたいはどうでもいいのに
(その証拠に
(それらがいろいろに違う人たちが
(世界のあちこちで平気で生き続けている
ヘンにこだわる
ヘンなとこでこだわる
まして
趣味や好みに至っては
もう
どうでもいいでしょ
あれでも
これでも
ってのに
こだわる
こだわっちゃう
で
エネルギーや時間を浪費しまくる
ぼくは
戦争や虐殺の
写真や映像を見るのが大好きで
(それは戦争や虐殺が好きだからではなく
(人類だの人間性だのの
(どうしようもない限界や虚偽が
(そういう場面にあからさまに露呈するからで
(ふだん嘘っぱちで運営されている人間社会の根幹が
(もののみごとに蕩け落ちていくのを見るのが
(三度の飯より好きだから
ほんとうにいっぱいいっぱい見続けてきたが
ああして殺されていく側は
ああして死体化されていく人たちは
こだわりなんて
すっかり無視され剥ぎとられてしまって
ただ頭に弾丸を撃ち込まれたり
ただ頭が吹き飛ばされて脳が飛び散ったり
ただ首を掻き切られたり
ただ内臓を外に掻き出されたりするだけ
ふつうの社会でも似たようなもので
どんなに配慮された葬儀でも
死体は冷凍保存されて
もう甦る暇も与えられないし
葬儀の際に顎がちょっと開き過ぎなのを閉めようとすると
葬儀会社の人から
冷凍保存した後は骨や腱が折れやすくなっているので
そのままにしておいたほうがいいですよ
と注意されたりする
生きていたら本人が気にして口をもっと閉じたりするだろうけれど
死んだらそんなこだわりも
もうナシ
もう
こだわりようもない
死んだ後のことを
死んだ瞬間のアラレもない姿を
死ぬ時のどうにもならない姿を
殺される時の一切のこだわりを剥奪される状況を
まだ
たまたま
生きている今から
あらかじめ読み込んで
つまらないこだわりと対峙しよう
と
ぼくは思う
どんなこだわりも
どんな気づかいも
どんな配慮も
どんな主義主張も
どんなダンディズムも
どんなコケットリーも
死ねば
その瞬間に消える
死ななくても
意識もうろうとしたり
意識があっても体の自由が利かなくなった時点で
消えざるを得ない
消される
無視される
ヘンにこだわられると
世話する側には邪魔でもある
まわりに親しい取り巻きがいて
あれこれ気づかいをしてくれるうちはいい
稗田阿礼たちがいて
人生物語を伝承してくれるうちはいい
でも
そんな人びともすぐに死に絶えるのだから
(しかも他人の物語の稗田阿礼であることは
(無限の読解のできるじぶんの物語の稗田阿礼では
(ついにいられなくなるということだし
どんな個人のこだわり伝説も
せいぜいが数十年程度で完全消滅する
そんなもののために
たまたま生きている今の現在時の
この不可思議で複雑なエネルギー現象を
無駄にしてしまうのか?
と反省すると
おのずと
今
やるべきことは決まってくる
こだわりを捨てる
すべて
じぶんの個性だの
プライドだの
見栄えだの
そんなものとひっくるめて
ぜんぶ
少しでもかるく
かるく
かるく
もう
死んでしまっているほどに
かるく
この陽光と
闇と
複雑に混合された空気の中に
もう少し
滞在し続けるために
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