2018年7月17日火曜日

「危機管理」思想をどう管理するか 1995年5月13日


 Nouveau Frisson 37号(1995年5月17日発行)所収
(20世紀終わりに作っていた個人誌の古い文章であるが、 当時の知的感情的状況をなかなかよく伝えており、現在でも大筋で見解の変わっていない内容であるため、ここに採録する。先頃の幹部処刑に際して、オウム真理教がたんなる反社会的集団やテロ集団であるに過ぎなかったかのような貧しい受けとめ方が蔓延していることに衝撃を受けたことが、この採録の理由である)


危機という言葉が流行り始めてきた。震災や毒ガス事件に見舞われたうえに、だれもが同質であると思い込まれがちであった日本人のなかに、かなり異質な思考・行動をするひとびとの集団がすでに現われていたのが明らかになるにつれ、日本人たちは、あたかも敵襲を告げあうプレーリードックの鳴き声のように、キキ、キキと発声し始めている。それが「サリン」だとか「オウム」だとかいった固有名詞に取って代られることもあるにしても、意味するところはそう変わらないように見える。けっきょくは、少女たちの「ウッソー」や、若者たちの「シャレンナンネー」などとほぼ同じ機能を持つ言葉だろう。ようするに言葉の発し手が受け手にたいして、他の連中はともかく、自分たちだけはあくまで同質だよネ、立場おなじだよネとせつなく確かめようとしている、そういう言葉なのだ。
 日本人のなかに身を置きながら、職場やさまざまな場で日本人特有の同質信仰を強要されるのを苦々しく思い、日常生活自体のなかに個人的カモフラージュを意識的に組織して来ざるをえなかったひとりとしては、今回のオウム真理教事件の発生は、少なくともひとつの快挙のごときものとして受け止めざるをえなかった。誤解のないように言っておかねばならないが、わたしはこの教団の教義にも信仰にも、また、次々と発覚しつつある救団の違法的かつ非人間的な行動にも、個人的にはなんら共鳴していない。むしろ強い不快の念とさびしさを覚えるといってよい。違法捜査の疑いあるといわれる公安の仕事についても、今回はやはりやむを得ないところがあるのではないかと考えている。近代国家の一員には、公安警察の行動の是非をつねに監視する義務があるとわたしは考えるが、その義務とは、この国家認定スパイ組織にたいし批判や方法的疑念をつねに向けるとともに、その活動の適切な理解にも努めようとするものであるべきだろう。
この事件が快挙であったというのは、だから、オウム真理教を肯定するとか、それに共感するとかいったことのためではまったくない。そうではなくて、この集団のあまりにも輪郭明瞭な信仰と言動が、マスメディアを通じこれほどまでに日本の津々浦々に知れ渡って、とにかくも日本人の同質信仰に決定的な亀裂が入り得る状況が近づいたと思うからである。日本人の同質性というものが、どの程度実体的でどの程度架空のものか、どの程度維持すべきものでどの程度破壊すべきものか、これらについてはさまざまな考察が可能なのだが、わたしがいま問題にしている同質信仰の強要というのは、そうした学問的なレベルでの問題ではなく、ごくごく実際的な、実生活の対人関係レベルでの問題なのである。わかりやすく端的にいえば、この国では自分を他人と同質であるように見せなければいけない、というあの暗黙の戒律のことなのである。
同質信仰というよりは、同質性維持の義務とか、同質性を装う義務、あるいは、同質であれ、という脅迫とさえいうべきかもしれないが、東京サリン事件以後、オウム真理教がマスメディアを通じて行った広報活動が、この陰湿な日本的義務にたいする敢然たる反抗であったことだけは、反オウムの立場をとる者であっても認めておくべきだと考える。むろん、それがオウム真理教内部において、教祖とシステムへの絶対服従、および個我の放棄といった内実を持つ「信仰」によって支えられていた行為であることを見逃してよいというわけではない。実際のところ、マスメディアによる報道の周辺にじつに微妙なかたちで出現した境界線のこちら側(日本社会)にも、むこう側(オウム社会)にも、個人を社会の完全な歯車に落としめるための脅迫と侵食があったとみるべきであろう。わたしが注目したいのは、こうしたふたつの社会が正面から衝突した瞬間に、とにかくもオウム的強要システムの確固たる存在によって、日本的強要システムに亀裂が入ったということである。上祐外報部長の数多い発言は、サリン事件やオウム真理教が引き起こした多くの問題を方法的に捨象して考えれば、日本社会が隠微なかたちで個人に強要してくる同質性への敢然たる否定に貫かれていた。日本的同質性の共有など少しも受け入れる様子を見せなかった彼の発言が、マスメディアの場において横柄と見なされたのも当然である。というのも、マスメディアは現在、この同質性の核をなしているとともに、これへのマインド・コントロール機関でもあるのだから。OLたちの上祐・青山フィーバーにも、おそらくはっきりした理由がある。上祐外報部長と青山弁護士は、マスメディアの前面に出て、ほとんど一斉射撃を受けるかたちで現代日本の同質性強要システムとも切り結んでいたわけで、そんな戦いぶりのできる男など、彼女たちのまわりにはこれはでひとりもいなかったからである。同質性強要の被害者から、やがては加害者になっていくことでのみ達成される日本社会における出世のからくりは、彼女たちのまわりの男たちを、みな同質性システムの犬にしてしまった。そこへはじめて犬でない男たちが現われた(とみえた)のだから、たしかに花束のひとつも贈りたくなるわけである。もちろん上祐外報部長と青山弁護士は麻原システムの忠実な犬であったわけで、もし、そうした向こう側の事情が読めていれば、彼女たちでさえ花束を贈るというようなことはしなかったはずではあるが。
社会内部の強要システムに亀裂が入る危機に見まわれたのは、こちら側の日本社会ばかりではなかった。ふたつの世界の衝突は、オウム真理教の社会にも亀裂を生んだ。それは、各地のオウム施設への強制捜査以降の信者たちの脱会や、上祐外報部長の言説の変化と矛盾、五月十二日発表の組織改編などから明らかである。
ふたつの社会が正面からぶつかり合うと、最終的にはいずれの社会の内部においても、個人を社会の完全な歯車に落としめるための脅迫と侵食の機能は崩壊を始めることになるのではないか。日本社会の同質性強要体質に、骨の髄まで苦しめられてきたわたしには、オウム真理教をめぐるこの二ヵ月ほどの騒動は、なによりもこうした仮説のひとつの実地検証例として映っていた。仮説の真偽をさらに考察するためには、おそらくさらに数か月にも数年にもわたって推移を見定めなければならないとはいえ、直観的にはすでに、この仮説は正しいという気がしている。
危機という言葉が流行っていると冒頭に書いたが、日本社会の同質性強要体質が体質改善されるということをよしとするならば、今後、少なくともオウム真理教程度には手強い集団の出現によってもたらされるであろう危機を、さらに待ち望むべきであるということになるかもしれない。それはたぶん、たとえばアメリカ合衆国が貿易問題等において徹底的な対日政策を次々打ち出してくるようなかたちでもよいのだが、やはり最適なかたちは、同じ日本国籍の所有者同士でありながら、互いに存在さえ認め合うまいとするまでの、完全に交渉不能な多くの集団の出現と形成とであろう。世界的に袋小路に陥ってしまった自由と平等の方程式研究の解へは、いったん、こういった多くの集団が出現する、絶望的でもあり悲劇的でもあるはずの時期を経ないかぎりは、辿り着けないのではないかという気がしてならない。そこを通過しないかぎりは、集団形成時における根深い個人抑圧傾向は、けっしてわたしたちの思考構造から払拭されないのではないだろうか。
集団形成時における個人抑圧傾向は、社会が各個人に同質性を強要することで、社会自らのアイデンティティーを維持しようとすることの表れといえるが、これまで日本人は、こうした社会側の方法を、必要悪として結局は認める方向で進んできた。べつの方法の模索はいくらもあったが、日本においてはいつも、中途半端に観念的なレベルにどれも留まってきたといえる。しかしながら、この点で、まったくべつの進み方を試みるべき好機に、わたしたちは差し掛りつつあるのではないか。べつの進み方とは、すなわち、異質とみえる他者の内に同質性を見出だし、それを通じて他者を脱他者化することによって辛うじて交通しようとするのではすでになく、他者の異質性をそのままに、直接、なんの媒介もなく交通することである。あるいは、不気味さを、恐怖を、不安を、不可解さをなんら変質させることなく、それらと交通すること。日本社会にかぎらず、現代の人類全体が、いまこういった直接的交通能力への挑戦の時期に差し掛っているのではないだろうか。
いうまでもなくこれは、強度に「宗教的」とみえる性質のものである。方法や修行を媒介として現在の自己をありうべき未来の自己へと交通させようとしたオウム真理教は、じつはきわめて間接的な宗教なのだが、これはオウムにかぎらないことで、もともと宗教はすべて間接的なものだ。世界的に多発しはじめた宗教問題は、かなりの数の批評家たちや学者たちが誤って語っているように、人間にとっての宗教の重要さが増してきたことを意味するわけではけっしてない。シンボルを使用し、言葉を使用し、儀式を使用するものとしての宗教は、すべて間接的であり、そうであるがために例外なく、これからの時代において、人類に本質的な寄与は為しえないにちがいない。宗教は人類の結晶化した失敗にすぎない。ときにはなるほど、宗教の名においてひとを慰めたり、なにかを解決するかにみえたとしても、じつは、後にかならず大きな災いを生み出すような巧妙な詐術が行われたにすぎないのである。
これからの時代におけるこうした宗教の無益さは、コンピューターによって象徴されるような情報システムの繁茂の無益さに類似している。おそらく、わたしたちが現時点で想像するよりはるかにはやく、コンピューターも通信システムも廃れるだろう。情報網が不要になる時代が来る。必要な情報は即座に直接に意識化されるような時代が来る。これは、麻原氏の得意な例の予言の類ではなくて、端的にいえば欲望の類である。未来は、わたしたちが自己の内なる欲望に、適切にまた精妙に問い掛けるすべを知っていさえすれば、かならず見えてくるものなのだ。外にはなにもないし、なにも見えない。外になにかあり、見えるという場合は、外が自分である時だけである。コンピューターや、現時点で展望されるような未来通信システムについては、わたしたちの欲望の奥底にはすでに、それへの不快感と憎悪がはっきりとかたちをとりつつあると思われるのだ。わたしたちが望むコミュニケーションや知の形態はあんなものではないのではないか。あんなさびしい、つめたい、そして独特のきたなさを持った、まさに「サティアン」群そのものの唖然とする他ないほど美的感性の欠如した電気機器群の管理人ふうの生活ではない。こういった方向修正の欲望が、すでにわたしたちの奥底につよく動き出していないだろうか。
 危機という言葉について考えようとするうちに話がズレたが、近ごろ公安のスポークスマンさながらに危機管理の必要を説いている元内閣安全保障室室長·佐々淳行氏のような危機概念をわたしが持ち合わせようがないのは、これまでのズレた話からも明らかなところである。これから起こるさまざまな危機に備えて、そこから生じうる死傷程度を可能なかぎり抑えようとすることには、わたしはむろん異論はない。しかし、現在の社会体制を極力維持することまでを、いわゆる「危機管理」のなかに含めることには正面から反対するつもりである。歴史的にみて、公安部門はこうした意味での「危機管理」に力を注ぎすぎる傾向があったのだが、公安は今回の戦後体制の崩壊期到来にあたって、人命保護や公共設備への被害の軽減以外の「危機管理」を厳に自戒すべきである。政界・財界・産業界等の現制度を維持することにつながるような「危機管理」活動は、断じて行ってはならない。理由は簡単で、これからわたしたちが突入する数十年間は、長く厳しい革命の時代となると思われるからである。いわば赤十字的な、最低限の「危機管理」をすることに飽き足らずに、もし公安が最大限の活動をする方向に一歩でも踏み出せば、公安自体のアイデンティティーの崩壊の道もそこから始まることになる。なにを守るかということ自体が時々刻々変化する時代に、公安が活動を拡大したりすれば、手のつけられない新選組ふうの殺集団が誕生する。時代が必要とする才能や人材は、かならず社会のその時点での制度や慣習や感性を逸脱しているものであるが、かれらを次々に闇に葬っていくのがかならず公安の「危機管理」の主眼になるにちがいない。国や民族がこれによって蒙る被害は大変なものになろうが、二十一世紀においては、それはすなわち全世界的な損失をも意味することになるはずである
オウム真理教をめぐる事件群の報道や識者の論評を見ていると、いっそうの「危機管理」が必要であるという点では、どのような人々の意見もほぼ一致している。しかし、数年後にオウム真理教問題がほぼ一段落する時点で、ほんとうに巨大な問題として出現してくるもののうちのひとつが、こんどは「危機管理」思想をどのように管理するか、という問題であることは疑いえないところであろう。もともと、管理できる「危機」が危機であるはずはなく、こちらの管理能力などはるかに越えた事態が生じて、はじめて危機の到来と呼びうるわけで、そんなほんとうの危機を管理できるように限りなく準備しようとすれば、行きつく先は、先手を打ってサリンをこちらから撒くというような事態に必ずなる。「危機管理」の精神は、必ずべつのレベルの危機を捏造する構造を持つと見ておいたほうがよい。
オウム真理教が時代錯誤的に起こそうとした革命とはべつの、はるかに巨大な、地球と全人類の存在を賭けた革命は、恐ろしいことながら、すでに、ほんとうに始まってしまったらしい。人類の自己変革能力もその革命のなかでは絶えず試されるはずだが、そういう時代に、避けることのできない、どうしても必要な崩壊や破壊や逸脱などの「危機」を、適切なかたちで起こるがままにしておけるような「危機管理」の精神のすみやかな形成がいま必要なのだ。管理しないことも、革命の時代の「危機管理」の方法のひとつであるばかりか、時には進んで、自らが本来防衛、維持すべきものを破壊することも、この時代の「危機管理」の方法のひとつに入ることになるだろう。こういう融通無碍な「危機管理」を可能にするためには、なにをほんとうに守るべきか、なにを価値あるものと見なすべきかという無限の問題群自体を、自らのアイデンティティーそのものとする他はない。すなわち、ふたたび人間的な、あまりに人間的な問題を全的に引き受ける他にはない。革命はつねに原人間へ回帰することなのだが、ふたたび人間の源へはだかで(というのも、無数にある方法のすべてが無効化するからだが)直接的に回帰する使命を、人類のこの時期にたまたま居合わせて幸か不幸かすでに仰せつかってしまっていたということに、もうそろそろわたしたちは気づくべきではないだろうか。



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