2018年7月30日月曜日

ブリコラージュの素材、またはパルティザンの理論

 
インスタグラムとツイッターというSNSに
たゞ写真や画像だけを載せてみる
という実験を始めてみて
もう
ずいぶん経つ

ごく稀に
じぶんで撮った
どうでもいい
(…「どうでもいい」というのは
社会的な個としての情報を意識的に削除し尽しているという意味…
写真を載せてみることもあるが
ほゞすべて
インターネット上で拾った写真や画像であり
じぶんが創ったものでないものの
横流し作業である

ずいぶんたくさんの写真や画像を
インターネットの他の場所からさらに別の場所へ
こんなふうに横流ししながらの
率直な感想は
下らない…の一語に尽きる

この
下らない…
という感慨には
しかし
いろいろな意味あいがある
ほぼ99パーセントの人間が初原的な意味での創造をせず
それでいてアーティストぶったり
イノヴェーターぶったり
オリジナルな何者かぶったりする
そんな形容表現領域上の汚辱の極みの現代にあって
人類よ
人類サンよ
あなたがたがやっているのは
わたくしがインスタグラムやツイッターに施している糞作業と
まったく変わらないんだよ
という
意味あい
(…まったく、どこまでわたくしは冷笑的なんだかwww

唯一違いがあるとすれば
わたくしはインスタグラムやツイッターを糞壺と正しく認識しているが
人類サンよ
あなたがたはそれらを花瓶かお手製飾りポットかなにかのように
少しでも人目につこうとウキウキしながら
お飾りに余念なく精魂傾けてるのネ
って
いうところ

糞壺は糞壺として
ちゃあんと
正しくお使いなさいナ
自我だの
個性だの
そんな心の糞の捨て場所として

ちょっとむかしには
痰壺というものもあって
他人に見てもらいたいとか
やさしくしてもらいたいとか
愛してもらいたいとか
むやみやたらに見テ見テ見テ症が嵩じてきたりして
そんなキタナぁイ痰が心に溜まってくると
駅や公衆便所などで
世のオジサンたちはペッと吐き捨てていったものだった

英語ではspittoonとか
cuspidorとかいうらしいから
ひょっとして
世界中にあったものなのかもしれない
ニッポンの若い子たちは
オジサンというと汚らしいモノと決めつけているらしいが
世のむかしから
こころに溜まってくる汚ないものの定期的な処理に
ほんとうに気を使っていたのは
むしろ
オジサンたちのほうだったかもしれない
だいたい
ニッポンの若い子たちは
平気で梅毒や林病やAIDSの湿地帯にうまか棒を突っ込んだり
平気で梅毒や林病やAIDSをまぶしたうまか棒を突っ込ませたり
なかなかスリリングなのがお好きなようだが
オジサンたちはなんの儲けにもならないそういうスリルは避けるも

誰でも覗けるとはいうものの
閉鎖系であるインスタグラムと
インターネット内の開放系であるツイッターとでは
もちろん
用途も機能も微妙に
いや
極めて大きく違うので
おなじSNSとして十把一絡げのように
インスタグラムとツイッターを同列に語るのは
もちろん
いけないかもしれない

ツイッターはなんといっても情報操作に役立つのであり
他人の調査に誰もが余念のない昨今
ネット上のどこでも手に入るような
きれいな罪のない写真でも大量にツイッター上に並べて載せておけ
なぁんだ、たいしたこともないヤツだな
と見せるのに
とても役に立つ
いくら調査目的とはいえ
ツイッター上の写真を何百以上も細かく見て
人格調査をやるほどのタマはあまりいないのだから
調査の意志などというものは
数十もパラパラ写真を見るうちに潰えていってしまう

下らない…
もの
ながら
どんな下らないものにも
時機にかなった利用価値はあるもので
しかるべく利用するのが
サバイバルの基本だし
レヴィ=ストロース的にいえば
あれだネ
ブリコラージュの
素材

どんな時も
サバイバルの現場なのだし
死ぬか/生きのびるか/殺すかの戦場なのだと
認識していればの
話だけどネ

自分以外のすべては「敵」である
と政治学的に認識するのを勧めてくるカール・シュミットならば
パルティザンの理論
とでも
いうだろうかネ



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