2020年4月2日木曜日

それ トトントとトトントと 顔と顔



三波春夫の東京五輪音頭(1963)を
チャラン・ポ・ランタンが見事に歌っている*

♪オリンピックの顔と顔
それ トトントとトトントと
顔と顔

このくだりを聞いて
ありありと当時の空気感が
頬に
うなじに
手の甲に
腕に
べったりと蘇ってきて驚いた
心底驚いた
1963年から1964
どこに行ってもこの音頭が流れていて
都心の繁華街に行っても
近場の商店街に行っても
これが流れ続けていた

63年には幼稚園にも上がっていない子どもだったから
買い物に出る母に毎日のようについて行く
64年には幼稚園に行き出したが午前中で終わってしまうから
午後になるとやはり買い物について行く
行く先々でどこでもこれが鳴っていたのだ
ほんとうに
これが

父の仕事上の都合で
うちの家族は追われるように
東京から仙台へ
新潟へ
引っ越しをくり返していた
1963年の秋には名古屋の端っこの守山区市場に引っ越したと思うが
谷田川のほとりの雑駁な土地で
土管作りの会社が作ったアパート住まいだった
大小さまざまな土管が置いてある広い敷地で
土管屋のお姉ちゃんたちとよく遊んだが
下水道に使うような大きな土管のなかに入って
人形遊びやおままごとをするのが普通だった
雑草を干して砕いてからお茶を淹れる遊びなどは
この頃に学んだり編み出したりした
うちにいる時は朝から子ども向けのテレビを見ていて
「ブーフーウー」や「ジャングルおじさん」をやっていたが
「ひょっこりひょうたん島」はまだだったと思う

それらの子ども番組よりもつよい印象を受けたのは
11月のケネディ大統領暗殺を伝えるテレビ放送のほう
人が映っていないホワイトハウスの風景がずっと流されていたが
大統領のことも人々の動きも映っていないので
なんだかヘンだし面白くないなあと思って見ていた
初の日米間の衛星中継によるテレビ伝送実験が行われていたそうで
ウィキペディアによれば
即座に事件の詳細が伝えられ、視聴者に大きな衝撃を与えた。
伝えたのは毎日放送北米支局記者の前田治郎で、
第一声は以下の通りであった。
『日米宇宙中継という輝かしい試みの電波に乗せて、
悲しいニュースをお伝えしなければならない事を残念に思います。
アメリカ合衆国第35代ジョン・F・ケネディ大統領は
1122日、日本時間1123日午前4時、
テキサス州ダラス市において銃弾に撃たれ死亡しました』
午前4時にはもちろん起きてテレビを見たりはしてはいないから
その日の8時や9時以降のテレビ放送を見たことになるのだろう

ケネディ大統領がどんなに素晴らしい大統領で
若くて格好がいいかは
年がら年中 親たちや叔父さんたちや他の大人たちが言っていて
そう思って写真をみるとキリッとしていて確かに格好がよく
父や他の大人たちも散髪はケネディ・カットで
あの大統領がどれほど世界の男のファッションを変えたか
1960年代を生きていなければ体感的にはわからないだろうと思
人生でなにが世界的大事件だったかといって
心情的にはケネディ大統領の死ほどの大事件はなかったように思う
ベトナム戦争であろうが安保闘争や学生運動であろうが
それ以外のことはヒーローを求める子どもにはたいしたことはなかった
ホー・チ・ミンの山羊ひげ顔では格好悪すぎだし
太った豚おじさんみたいな毛沢東の姿はなるべく見ないで過ごしたかった
チェ・ゲバラも同時代人であれはちょっとイカしていたけれど
ラテン系の髭顔というのは薄汚くむさ苦しくも見えた
ぽわぽわのお姉さんのマリリン・モンローとも仲がいいということで
どうしたってケネディ大統領だったのだ
2つボタンの軽装スーツに細く結んだネクタイをするというのも
ケネディ大統領から全世界に広まったようなもので
今でもぼくが2つボタンのスーツやジャケットにこだわるのは
ケネディ・スタイル以外はダサくて身につけたくないという
60年代に幼時の脳髄に染み込んだスタイルが強烈なままだからだろう

1963年のうちに新潟を離れておいたというのは
じつは大変なことでもあって
1964年の616日に新潟大地震が起こっている
もう少し引っ越しが遅かったら遭っていたねえ
もう少しのところをギリギリで助かったねえ
という話は数年のあいだ家族や親類の間で出続けた
なじみの新潟に大地震があったりケネディ大統領暗殺があったりで
慌ただしい年々だったが
オリンピックがあるというので
ざわざわとしながらも世の中には上がり調子な雰囲気があった
ケネディ大統領はオリンピックに来れなくなっちゃったね
とまわりの大人によく話したが
それがぼくなりの追悼の表現だったかもしれない

1964年の春からは守山区の第二富士幼稚園に通うようになった
ネットで調べてみると今でも存在していて評判がよいらしい
写真を見ると建物はもちろん当時とは違っているが
敷地内の建物や遊具の配置などがあまり変わらず驚かされる
滑り台の上からぶら下がったらうまく移動できずに凍り付いてしま
泣きながら両手で必死にしがみついているところを
先生に助けにきてもらった時に見た園舎の風景が
今もほとんど変わらないのをネット上の写真で見て驚いてしまうの
助けに来てくれた担任の若い女の先生は眼鏡をかけていて
いつも決まった香水の香りをさせていて
毎日幼稚園に行くと先生に抱きつきに行って
香水の香りを嗅ぐのが挨拶でもありなにかの確認のようだった
幼稚園児はいつも犬のように親しい人に飛び込んでいくものなのだ
マイクロバスが毎日谷田川の土手に迎えに来て
それに乗り込んで幼稚園に向かうのだが
母や家からひとりで離れるのが寂しくて辛くて
幼稚園では不安でたまらなかった
他の子どもといっしょにいるのはそれはそれで面白くはあったが
ふだん自分がいる家やその周囲から離れるのが辛い
今になって思い返してわかってくるのは
離れるのが辛いのはじつは自分の「家」なのではなく
名古屋の守山区市場のあのあたりであり
その後に住んだ愛知県岩倉町(現在は市)であったりすることだ
幼児から少年になっていく頃のぼくはこの世に根を張り始めていて
張り出した土地は守山区であったり岩倉町であったりしたのだろう
1968年に関東に引っ越すことになった時は
東京生まれ東京育ちの親たちはようやく故郷に帰れると喜んでいた
同じく東京生まれでありながらも
守山区や岩倉町こそ故郷のように痛切に感じていたぼくには
心の引き裂かれるような辛い出来事だった
東京人でありながらも東京に出てきた地方の人の気持ちもよくわかるのは
ぼくがどこまでも守山人で岩倉人だからなのだろう
ケネディはベルリンで
Ich bin ein Berliner(私はベルリン市民だ)と言ったが
たぶん二十歳頃まではぼくも
Ich bin ein Iwakurar(私は岩倉町民だ)と思い続けていた
そう思っていないと
東京や関東の底知れないつまらなさや
どうにもこうにも肌にあわないどうしようもない感覚に
負けてしまいそうだった
(ドイツ語でIwakurarって言えるのかどうか、ぼくは知らないが…)

ともあれ
三波春夫の東京五輪音頭が
どこに行っても
津々浦々
流れていた
都心の繁華街に行っても
近場の商店街に行っても

関東住まいの母方の祖父母の家に頻繁に行っていたし
新しいもの好きの祖父に伴われて
196410月開通の東海道新幹線にかなり早い時点でぼくは乗
東京駅だったか
その周辺のレストランでも美波春夫を聞き
銀座や日本橋でさえも
都内のあちこちの店でも
三波春夫を聞き

♪オリンピックの顔と顔
それ トトントとトトントと
顔と顔

このくだりを
頬に
うなじに
手の甲に
腕に
べったりと受け止めて
オリンピック競技場には入らなかったものの
代々木の競技場には散歩に行って
ほら、この中でいま競技をやっているところよと言われて
階段を上りながら見上げたら
足を踏み外し
よろめいて転んだものの
まだ
マルセル・プルーストが『失われた時を求めて』で描いた主人公の
ヴェネチアの街路で踏み外してのよろめきを
もちろん
知りもしない頃だった

♪オリンピックの顔と顔
それ トトントとトトントと
顔と顔

♪オリンピックの顔と顔
それ トトントとトトントと
顔と顔





*チャラン・ポ・ランタン「東京五輪音頭」(1963




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