どうも過越のくりかえしのように思えてならない……
と思いながら
引きずられていくうちに
ホロコースト記念日へ
ホロコースト記念日のヨム・ハ・ショア (Yom Ha-Shoah)は
2020年は4月21日
ショアは
大きな不幸や大惨事を意味する
1943年ポーランドで
ワルシャワ・ゲットー蜂起が起こった時期を起源として
ホロコーストにおけるユダヤ人大虐殺を追悼するヨム・ハ・ショア
午前10時には国中にサイレンが鳴り響き
2分間の黙祷を捧げる
もしこれを
全世界規模で行わせようとすれば
どうするのが好適か
あゝ、そうか……
アウシュビッツにおける「ムーゼルマン」、
ミイラ人間、生けるしかばね
収容所の極限状況が引き起こした前代未聞の人間の変容
「人間が非-人間に移行し」* (アガンベン) ……
あらゆる希望を捨て、仲間から見捨てられ、善と悪、 気高さと卑しさ、 精神性と非精神性を区別することのできる意識の領域をもう有して いない囚人が収容所の言葉で呼ばれた名にしたがうなら、 いわゆる回教徒である。かれはよろよろと歩く死体であり、 身体的機能の束が最後の痙攣をしているにすぎなかった。**
病人の一団を遠くから見ると、 アラブ人が祈っているような印象を受けた。この姿から、 栄養失調で死に瀕している者たちを指すのに、回教徒という、 アウシュヴィッツで普段使われた名称が生まれたのである。***
かれら、回教徒、沈んでしまった者たちこそが、 収容所の中枢である。神の火花が自分のなかで消えてしまい、 本当に苦しむことはできないくらいにすでに空っぽになっているた め、無言のまま行進し、働く非-人間たちの、 たえず更新されてはいるがつねに同一の匿名のかたまりこそが、 収容所の中枢をなしているのだ。 かれらの死を死と呼ぶのはためらわれる。というのも、 かれらは疲弊しきっているために死を理解することができないので 、死を前にしても恐れることがないからである。わたしの記憶は、 かれらの顔のない姿でいっぱいである。****
全世界にムーゼルマンを再出現させ……
あゝ、そうか……
となれば
これから、さらに、
来る?
さらなる非-人間の量産が……?
しかし、
その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、 家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、 エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。
あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。
わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。 わたしがエジプトの地を打つとき、 あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。
この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる。 あなたがたはこれを主への祭りとして祝い、 代々守るべき永遠のおきてとしてこれを祝わなければならない。
あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。
わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。
この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる。
(旧約聖書、新改訳改訂第3版、出エジプト記12章12~14節 )
もし
傷のない一歳の雄の羊
を
生け贄にするならば
その血を
羊を食べる家々の二本の門柱と
鴨居に
付けておくならば
主は、エジプトの国でモーセとアロンに仰せられた。
「この月をあなたがたの月の始まりとし、 これをあなたがたの年の最初の月とせよ。
イスラエルの全会衆に告げて言え。この月の十日に、 おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、 家族ごとに羊一頭を用意しなさい。
もし家族が羊一頭の分より少ないなら、 その人はその家のすぐ隣の人と、人数に応じて一頭を取り、 めいめいが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。
あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。 それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。
あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。 そしてイスラエルの民の全集会は集まって、 夕暮れにそれをほふり、その血を取り、 羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。
その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、 種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。
それを、生のままで、または、水で煮て食べてはならない。 その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。
それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは、 火で焼かなければならない。
あなたがたは、このようにしてそれを食べなければならない。 腰の帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、 急いで食べなさい。これは【主】への過越のいけにえである。
「この月をあなたがたの月の始まりとし、
イスラエルの全会衆に告げて言え。この月の十日に、
もし家族が羊一頭の分より少ないなら、
あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。
あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。
その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、
それを、生のままで、または、水で煮て食べてはならない。
それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは、
あなたがたは、このようにしてそれを食べなければならない。
(旧約聖書、新改訳改訂第3版、出エジプト記12章1~12節)
注
(アガンベンの著書以外についての注は、小野寺秀也氏のブログ「 かわたれどきの頁繰り」に依り簡便化して表記。 詳しくは氏のアガンベン書評を参照されたい
*ジョルジョ・アガンベン『アウシュヴィッツの残りのもの―― アルシーヴと証人』((上村忠男、廣石正和訳、月曜社、2001 年)
**Améry, J. Un intellettuale a Auschwitz, Bollati Boringhieri, Torino 1987 (ed. orig. Jenseits von Schuld und Sühne. Bewältigungsversuche eines Überwältgien, F. Klett, Stuttgart 1977). 池内紀訳『罪と罰の彼岸』法政大学出版局、1984年
***Ryn Z. et Klodzinski S.
An der Grenze zwischen Leben und Tod. Erne Studie über die Erscheinung des «Muselmanns» im Konzentrationslager, in «Auschwitz-Hefte», vol.1,Weinheim e Basel 1987.
An der Grenze zwischen Leben und Tod. Erne Studie über die Erscheinung des «Muselmanns» im Konzentrationslager, in «Auschwitz-Hefte», vol.1,Weinheim e Basel 1987.
****Levi, P. Se questo é un uomo. La tregua, Einaudi, Torino 1995 (4a ed.; la ed. rispettiv. De Silva, Torino1947 ed Einaudi, Torino1963). 竹山博英訳『アウシュヴイッツは終わらない』朝日新聞社、198 0年、竹山博英訳『休戦』朝日新聞社、1998年
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