2020年4月6日月曜日

この頬を吸いたい



鞍馬山から貴船神社まで、芸もない、特別な趣もないハイキングをしてみたのは、その途中にある山道をちょっと逸れた小屋で、人にはあまり言えないものを御馳走される栄を賜ったからだが、桃の咲き満ちるあたりの風情が予想もしていなかった華やぎで、いいものを見たと思った。
神社から貴船口まではマイクロバスに乗ったが、額にずいぶん皺の寄った猿のような運転手が、道々、巧みにハンドルを切った。
電車に乗ってから市内へ向かう間、ボックス席の向かいに1819に見える若者が座り、崩れて腐りはじめそうな水蜜桃さながらに寝潰れた。造園の仕事の帰りなのか、洞山園芸と書かれた頭陀袋を足下に置いていた。まだ、一人前ではないのかもしれない。頬が桃の果肉のように薄赤く、美味そうで見える。熟れた無花果の実を割ったような色にも見える。この頬を吸いたい、と思った。
この若者、杉埜純と暮らすようになったのは、この後、ふた月も経ってからである。二十歳にならぬ男の体の頬のやわらかみは、わたしにはいつも垂涎三尺のものだが、純の頬は潤った清潔な砂の微粒子の集結体のようで、指を滑らすにしても、指先をめり込ませるにしても、これまで吸ったどの男のものよりもわたしを自失させてくれた。
純の男根がまた素晴らしかったのである。それは勃起せず、いや、勃起するにはするのだが、海鼠のようなやわらかさのままで、突き立てるような使用には全く適さない。普段でも242あるそれが、血を集めて54㎝ほどになりつつも、たゞくにゃくにゃと純の腹の上に寝そべっている様を、わたしは愛した。射精はできたので、わたしは純の精液をわたしの下半身に塗りたくり、わたしもまた純に挿入しては、抜いて純の腹上に射精したりし、ふたりの種を無駄にせずに穴という穴に擦り込んだりした。
妊娠したのは、純とわたし同時であった。十月十日というが、わたしたちの場合、純は二年半、わたしは逆にはやくて七ヶ月で出産を迎えた。わたしは左耳から産み落としたので、左耳夫と名づけた。小さな小さな男の子だったが、数年のうちに130㎝に達した。
純が鼻から産み落としたのは女児で、鼻と名づけるよりはと、華子と呼ぶことにした。左耳夫が、図体は大きくなってもまだ幼いながら、けなげに世話をしてくれようとし、華子の育児はずいぶんと楽だった。毎年の桜も、藤も、牡丹も、心ゆくまで純と見てまわれたのは、左耳夫のおかげと言える。
物語はここで終わる。というのも、わたしたち四人家族の生活は継続中で、これと言ったクライマックスも悲劇もないからである。
子らの存在にすっかり充足してしまったようなわたしの心は、この頃、純との交合もまるで求めなくなってしまったが、華子がかわりに純の頬を舐めたり、吸ったりしているのを見ると、意地悪とはわかっていても、言いたくなってしまう。
「お父さんのほっぺた、前はもっともっとやわらかくて、おいしかったんだよ」
 やさしく、やさしく言いながら、あゝ、なんと恐ろしいことであろうか、わたしときたら、あらたな若者の頬吸いを、もう夢見はじめてしまっているのである 。   



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