2022年1月31日月曜日

通った主な道の名で語り直せば


 

 

彼はまたはっきりと覚えている。――古本屋ばかりごみごみ並んだ二十年前の神保町通りを、その古本屋の屋根の上に日の光を受けた九段坂の斜面を。もちろん当時の神保町通りは電車も馬車も通じなかった。

芥川龍之介『大導寺信輔の半生』

 

 

 

 

家から日本橋室町まで歩いて行き

COREDO室町3の茅乃舎でだしなどを買って

また歩いて帰ってきた

 

まとめて

言ってしまうのがふつうだが

 

そういう

ふつうな纏め語りを反省して

あえて

通った主な道の名で語り直せば

 

飯田橋・九段下界隈から専大通りに出て

靖国通りで曲がらずに

あえて共立女子大のほうへ進み

首都高池袋線に沿ってしばらく歩いてから

一ツ橋で都心環状線に沿うようにし

錦橋のあたりから日本橋川沿いに進んで

本郷通りに入って大手町入りし

林立するビルの間を抜けるうちに

ふだんはあまり歩かない「星のや東京」の前に出て

やはりいつもは辿らないNTTビルの前を経て

JR高架下を抜けると常盤橋公園に出て

おや、こんなところに渋沢栄一像が

とよく見ると朝倉文夫作で

そこから

日本橋川にかかる常盤橋を渡れば

日本銀行本店で

その前には「日本橋川」と筆書きされたものを掘った

石の柱が立っていて

誰の字かと思えば「十二代目市川団十郎」となっている

 

さらに東に進めば古風な三井本館の建物があり

その前には日本橋三越があって

常磐橋公園のほうから見えた

旗のはためく奇妙な塔は

なぁんだ

三越の端っこに立っている塔だったかと

分かってくる

なかなか趣のある三越の建物の前に立つと

ようやくメトロの三越前駅にふさわしい街並みだと

感じられてくる

 

中央通りのCOREDO室町3に入って

1階の茅乃舎で目的の買い物をする

ついでに2階に上ってみると

チタン製テーブルウエアのSUSgallery

清水焼の樂只園の物の並べぐあいが目につくが

それらを買うつもりで来たのでないから

入りづらいので

雑貨が並ぶ中川政七商店の

いくつかの品物のほうに近づきながら

時には手に取りながら

それでも

なんだか値が張る店だなァと

離れていくうちに

奥にある神棚の里というモダンな神棚屋にヒョーィと入って

意表をつくようないろいろな神棚を見て

店員ともちょっと話してから

さあ

また歩いて帰ろうと中央通りに出て

神田駅方面へ向かっていくと

途中

神田御蔵町へ向かう細道に

古風な凝った意匠のビルが見えたので寄り道すると

丸石ビルディングという国登録有形文化財だった

 

今川橋を抜けてJR神田駅まで進み

さらに進んで靖国通りに当たって左折すれば

後はもう自動的に辿って行きさえすれば家に着く

神田須田町の古くからの蕎麦屋まつやを遠くから見たり

喫茶店が多いのが目につくと思いながら

すぐに小川町の圏域に入って

スポーツ店の並ぶのを冷やかしながら

特に冬場も終わろうとする今はスケボーが特価になっているのを

こんなに売れるものなんだろうか

と感心しながら歩き進んでいけばもう神保町で

ここまで来たら

ランチョンでビールを一杯飲んでいこうかと

思うものの日曜日

たしか休みのはずなので

それじゃあ

すずらん通りのろしあ亭でボルシチでも食べていこうかと

見に行ってみると

まん延防止等重点措置」への抗議を含ませた紙が貼られていて

とりあえず閉店とあり

しばらくしたらまた開くつもりがあると書いてあるものの

これでは

先に閉店した隣の餃子店スヰートボーヅとともに

閉店した店舗が並んでしまうわけで寂しいが

それでは今日のところは珈琲館でも行って

ホットケーキに珈琲でも合わせようかなと思って

ほぼ家に着いたも同然ながら九段下まで歩いて行って

靖国通りの珈琲館を覗くと

なぜだか若者で満員になっていて

立って待っている人たちもいるくらいなので

これじゃあダメだということで

近くの馴染みの源来酒家に入ることにして

うまい此処の餃子や点心と

昼食をとっていなかったものだから

麻婆豆腐セットも食べてみることにして

今日の出歩きは

これでようやく終わり

ということで

落ち着く

 

食べ終わって店を出てからは

クリーニング店に出しておいたコートを受けとり

スギ薬局ではトイレットペーパーだの

豆乳だのクッキーだのを買って

そうして

ようやく帰宅したのだった

 

主な通りの名を辿りながら

語り直してみたが

もちろんたくさんのことを省略して語っているわけで

いつも思わされるのだが

ほとほと「語り」というのは抽象行為であって

信頼できないペテンだと思う

私が詩歌を軽蔑し

散文を軽蔑し

文学を嫌悪するのはそのためで

言葉だの単語だの言語だのを使っているうちは

偉そうに

小賢しそうに

どんなに詳述しようとしても

けっして

断じて

B級の象徴詩の域を出ることはない

あまりに時代錯誤

あまりに時代遅れ

古色蒼然のお遊びで

あえて旦那芸や嗜みとして弄ぶのならいいものの

文弱の徒以外の者は

男子一生の仕事とするべきでは

断じてない

 

ところで

豆乳を毎朝飲むことにしているので

豆乳は必須なのだが

最寄りのスーパーマーケットで買うと198円(税抜)するところが

スギ薬局だと158円(税抜)なので

なるべくスギ薬局で買うようにしている

東京メトロ九段下駅5番出口前のスギ薬局だが

そこには数年前までは洋服のAOKIが入っていて

さらに以前は書店の啓文堂が入っていた

現在都内ではやたらとスギ薬局が増殖中だが

そのうち潮目が変わったらスギ薬局もグッと引いていくかもしれず

そうなったら次に入るのはどんな店だろうか

と思いながら

まだまだ使い続けている

2009年版の

「街の達人・コンパクトでっか字・東京23区便利情報地図」

では

九段下駅5番出口前には「啓文堂」と印刷されているのを見ながら

街のすさまじい変化の速さを思いつつ

そういえば

この地図の出版社である昭文社も

家からは散策の圏内の麹町にあって

四ッ谷まで歩いて行き帰りする時などに

その前をけっこう通ったりする





回心

 

 

埃が舞っているなァ・・・

思いながら

 

ひとつ

 

ふたつ

 

 

宙の埃を見続けていたら

 

いつのまにか

 

ちょっと

こころの浮き立ってくるような空間が

現われ出ていて

 

埃も

いいものだったんだなァ・・・

遅ればせながらの

回心





2022年1月28日金曜日

気息、風、魂を意味するルーアハruahに寄りつつ

 

 

呼吸の

とりわけ“息”が

他人に及ばぬように

との異様な

簒奪者の命令じみたものが巷の空気の中に

毛細血管のように蔓延るよう

画策された時期を

ギリシア語のpneuma

ラテン語のsupiritusに通じさせながら

ヘブライ語の

気息、風、魂を意味するルーアハruahに寄りつつ

レヴィナスが展開した呼吸論

気息論に

わたしは思いを馳せていた

 

“他人”によって

“わたし”の中に“息”が吹き込まれ

“わたし”のほうは

“息”を吐き出すことによって

“他人”にみずからを開き

与えるのが

“呼吸”だというのを踏まえて

レヴィナスは言う

 

「ありうる限り

もっとも長い息、それが精神(esprit)である

人間とは中断することなく息を吸い込み

永遠に息を吐き出しうる

もっとも息の長い生き物ではないのか」*

 

彼によれば

人間は

“息”が切れるほどに吸い込み

結集ではなく

みずからを消耗(consumation)させ

憔悴(consumation)させ

燃え尽き(consumation)させ

老衰(consumation)させ

蕩尽(consumation)させ

滅ぼし(consumation)

核分裂しながら

“存在”の

彼方を

語ろうとする・・・・・・

 

『旧約聖書』では

人間の生命原理そのものでもある

ルーアハruahへの

明白な侮蔑

レヴィナスの呼吸論や気息論への

傲岸不遜な毀損行為は

そのまま

“存在”の

彼方

からの人間の切り離しの企みであると

感じられていた

 

 

 



 

*エマニュエル・レヴィナス『存在するとは別の仕方で あるいは存在することの彼方へ』(合田正人訳)

Emmanuel Levinas  Autrement qu'être ou au-delà de l'essence 1974.






死体と鬼

  

 

「鬼は陰で、神は陽である。気が屈するのを鬼と言い、

気がひたすらやって来るのを神と言う。

『洋洋然としてその上に在るが如し』、

『焄蒿悽愴たるは、此れ百物の精にして、神の著はるるなり』とあり、

これはつまり、あの発生した精神である。

神は成長するもので、大きくなれば、

その現れが感じられて、即ち気の伸びるものである。」

 朱子

 

「程明道は『天地の間に、只だ一箇の感応有るのみ』と言う。

思うに、陰陽の変化、 万物の生成、感情の疎通、事や行為の終始は、

一つが感となれば、もう一つが応となり、それが循環して

互いに交替することによるものであり、故にやむことがないのだ」

朱子

 

 

 

 

中国に仏教が入った時

いくつもの論争が起こったが

そのうちでも

肉体の死とともに精神も滅びるのかどうか

このことをめぐっての対立は

もっとも重要だった

 

仏教徒は

精神と肉体は離合すると見なしていたので

一方が滅んでも他方は影響を受けず

したがって精神は存在し続けると考えた

 

中国側の思想家笵縝は

精神と肉体はひとつの体のふたつの面で

用と質を意味すると考え

したがって肉体の死は精神の死でもあるとした

笵縝は形神相即論を唱え

生死は忽然とひとりでに存在したり

突然に無くなったりする

自然独化であり

精神は自然の法則のもとで存滅するにすぎない

と考えた

 

ところが

どちらの論も存在と消滅だけを軸に

コントラストの強すぎる思考をしていたため

死体と鬼とを説明しきれない

 

肉体は死んでも

すぐには消滅せずに

死体としてしばらく留まるが

肉体でもなければ精神でもなく

無でもなければ不在でもない死体は

説明に窮する存在物だった

 

幽霊を意味する鬼も

肉体でもなければ精神でもなく

存在でもないのに

その現われ自体は現に存在しているので

仏教徒の論も笵縝の論も

すり抜けてしまう

 

鬼という特異な精神をなんとか回収すべく

やがて朱子が鬼神論を立てて

精神の共同体というものを仮定して

祖先祭祀という方法を導入していくことになるが

そのあたりの苦しい論理展開は

朱子のものというより

人間の辿りうる論理の限界を露骨に示していて

今なお最前線にあり続けていると言える

現代の人間はそのあたりを考えるのを放棄してしまったが

朱子は執拗に考え続けていたのが

微笑ましいし

大したものだと思わされる





「精神」

 

 

映画『マトリックス』で

モーフィアスが言っていた

 

「ある年齢を越してから

真実を知るのは危険だ

既知の現実認識を捨てられずに

精神崩壊する」

 

なるほど

一瞬思ってしまうが

モーフィアスは

(あるいは『マトリックス』の脚本家は)

おそらく

精神という語の

深い矛盾や

不条理や

そこから来る単語としての機能障害を

全く理解できていないので

さほど

気にする必要はない

そもそも『マトリックス』などという創作物に

なんの価値もないのだ

 

ましてや

英語からの翻訳者に到っては

中国語の文脈において

古くは

精神がまさに「精なる神」を

混じりけのない純粋な神を意味していたことなど

知っているはずもない

崩壊など

しようにもし得ないものが

「精神」だったことを





しましょ

 

 

車は岬の突端近くで止まった

 

蕗の薹が

首都高速都心環状線の✖✖✖の橋脚の下に

たくさん芽吹いている

 

手帖の

スベスベした彩度のやや低い合皮表紙の

初夏さんざめく小鳥たちの

林に

森はやしさんが

また

忘れてきちゃったのね

 

大好きな

セキレイ屋の

求肥が特においしい羽二重餅と

うぐいす豆

 

HMI-P39

ほんと

書き心地のいい

ペン

 

西空が

オレンジ色と紫色と

ちょっと濃紺の混じったような

あゝ

せつない恋を

また

したいものよねぇ

 

スペアミントのガムを

包み紙から

未来へと出して

天使天使しましょ

 

しましょ





雪原をながくながく旅して

 

そう

そしてひとはすぐに

経験を語ったり

考えを語ったりしようとする

 

語ることを

経験や考えの奴隷とすることに

ずいぶん

安易に

許可を与えてしまって

 

ヒナゲシと

そう

あれはなんという花だっただろう

あゝ、ガーベラ!

それに

ラナンキュラス!

 

それらを

暖炉の石組みの上に

急に

置きたくなった

 

(ちょっと

(甘くしたミルクを

(飲みたくなってきました

 

待っている手紙は

雪原をながくながく旅して

きっと

やってくるはず

 

(そう

(これは

(経験ではなく

(考えでもなく